03で書いた様に修道院では断食期間の妥協から、思わないビールなどが誕生して来ました。
そして修道院の中には飽食、美食が蔓延するところも出て来るようになりました。
確かに中世の修道院の歴史を見ると、このような結果から、精神的な堕落をもたらし、祈りも断食もしなくなった修道院は死んだ修道院となり、風刺画で揶揄されるようになり、16世紀の宗教改革へと展開していきました。
しかし、一方では、修道院で断食を守っているところも数多くあり、修道士とその教会では、祈り、断食、分かち合いが厳格に守られていました。
特に修道院での断食の理想は、修行や健康の理由からではありませんでした。
スピリチュアルな高みに至ろうとする行為でした。それは「キリストとともに死ぬ」ことの行為だったのです。
修道士たちはこの世の楽しみや物質的な財産を決して過小評価していませんでしたが、いつも手放す用意をしていました。
断食は「所有しなくてもいい」ということを身に着けるための行為、そして欲望のコントロールすることであったのです。そしてこの断食の意味を修道士たちは、
1・内面を浄化し
2・自分の内側をよく知り
3・自分の人生を見直し
4・何かを断念する勇気
5・いつもの習慣を断ち切る勇気
6・回心する覚悟
を断食で与えられていたのです。
ですから美容、健康維持のためにだけ用いている今日の断食道場のそれとは月とスッポンの差があります。
断食の奥義はまさにこの修道士たちのたゆまない断食への集中で今日まで伝えられて来たのです。
修道院はそのような断食の秘儀、奥義を綿々と私たちに伝えてくれています。
修道士たちは断食を通してこのように現代人に語りかけています。
「飽食したり、骨を折って権力や業績を追い求めていても、それは長くつづく本当の幸せを見つけることはできますか。恐らく見つけられないでしょう」と。
聖アウグスティヌスは、こう言っています。
「何でも探したいものを探しなさい。だが、いまあなたが探しているところではないところを探しなさい」と言っています。
修道院で今もなお祈りと断食と施しを営み、質素な歩みをしている姿こそ究極の断食のめざすところではないでしょうか。