【コルナロ語録 23】
私は自分の死についてこのように確信しています。まず平安な臨終を迎えます。
そして讃美歌を歌っている時に召されていくことでしょう。
また死に対する不安はいささかもありません。
また罪びとが抱くような最後の審判の恐怖もありません。
ああ、なんと私の人生はすばらしい人生でありましょうか。
また私が確信している臨終は何と幸せな終わりでありましょうか。
臨終は終わりではなく始まりなのですから。
こうした私の言葉に若い医師も帰す言葉がなく、ただ私の食習慣に倣いたい、努力したいと言うのみでした。
(91歳の講和-03「無病法」99-100頁から)
【解説 23】
聖書の神を信じない日本人には、コルナロの本質が理解できません。
「無病法」として翻訳された方の解説はまったく触れられていないからです。
全世界のクリスチャンの中で最もよく読まれていますが、
その備えをすべきだとコルナロは語っています。
コルナロの超少食による節制された健康管理は、天国への道備えであることが分かります。
そして肉体の死は終わりではなく、天国において待っておられる主イエスへの花婿への花嫁として、
備える時だと語っているのです。
つまり新しい出発の時なのです。
ほんとうに超少食という断食は、まさに「花嫁断食」なのです。
これが究極の断食の思想であり、奥義なのです。
この領域に体験的に到達してこそ、断食に生きる大きな意義があるのです。
日本で断食に関する様々な本を読んでもそこまでの断食について書かれた本は見当たりません。
そこに導かれる断食こそ、真の断食を極めた人といえるでしょう。
私はこの領域に少なくとも日本の全クリスチャンはいくべきだと願っています。
しかし、現時点では私も含めて到達していません。
また、断食とほど遠い日本教キリスト派のクリスチャンが大半を占めていますので、
この領域を求めてくださるクリスチャンが一人でも多く与えられるように祈るしかありません。
アメリカの有名な牧師が「花嫁断食」という本を書いています。
その序文の一部を紹介します。
「現代では断食をしたことがあると話すだけで、狂信家とみなされるかもしれません。
しかし、真実はその逆です。断食はクリスチャンにとって基礎であり、
聖人や道を究めようとする者たちに限られたものではありません。
自分の欲求を否定すると弱さがあらわになり、反対に神がいかに偉大であるかを実感できるからです。
断食を通して私たちは謙遜になり、自分の源である神がどれほど
偉大な存在であるかを知ることになります」