【コルナロ語録・解説 27】
高齢まで生きることが確実視できることは大きな利点がある。
それは極めて妥当な判断である。
つまり、食において非常に節度のある規則的な生活には病気は生じる余地はないからだ。
病死などなく天寿を全うできるからだ。
厳格な食の養生によって病気の原因が日々、とり除かれていくからである。
健康、不健康は、血液の状態と体液の質とに関係している。
それゆえに食欲ではなく、理性にしたがい、飲食を慎み、
自然が本当に必要とする量だけを食べておれば、いかなる病気に罹ることはない。
すなわち私のような生活であれば、血液はきれいになり、悪い体液は除かれ、
すべて完全に調和のとれた状態となるのだ。
もちろん人はどんなに養生に努めても、最後には必ず死を迎える。
私は同じ死でも病気や苦痛をともなわず、召されることである。
私は自分が平和のうちに静かに息を引き取るだろうと確信する。
私は喜びに溢れている。食欲もある。完全に熟睡する。
五官は完全で頭脳も明晰である。判断が曇ることもなく、記憶力も良い。
気分も最高である。
衰えはない。朝晩の祈祷では感謝で賛美を歌わずにはおれないのだ。
ああ、素晴らしい我が人生よ、
人間が享受できる幸福のすべてに満たされているとは何と恵まれているのだろう。
もはやいかなる肉体的な欲求も私を悩ますことはなく、心は平和で一点の不安もない。
また死が思いを占めることもない。たとえ死の思いがよぎったとしても恐怖などいっさいない。
これらは私が食事に気をつけてきたため神様が私にその努力の報いとしてさずけてくださったことである。
苦痛や多くの病気にさい悩まされ、先行きに大きな不安を抱えている大半の老人とはなんというこの違いであろうか。
私の現在は、心身共に大きな喜びに満たされているのだ。
(95歳の講和-03「無病法」117-119頁から)
【コルナロ語録 27】
コルナロの生き方は誰でも可能ですが、こと食に関してはなかなかできないものです。
コルナロのように理性と信仰の確信が必要です。
コルナロのように95歳にして「心は平和で一点の不安もない。また死が思いを占めることもない。」
という心境は、日々の食養生あってのことです。
ここまで節制に導く聖書を正しく学んでいただくことを用意して、皆様をお待ちしています。
コルナロのように「朝晩の祈祷では感謝で賛美を歌わずにはおれない」という信仰の生活は、
宗教的熱心ではないの日常の平凡な歩みのただ中で必要な生き方ではないでしょうか。
私たちも人生の終わりに近づいた時、
コルナロのように「ああ、素晴らしい我が人生よ、
人間が享受できる幸福のすべてに満たされているとは何と恵まれているのだろう」と神に感謝を捧げて、
天国に凱旋したいものです。
そのためにも藤樹の宿でその旅立ちの備えをしましょう。
たとえまだあなたが若くても備えは必要なのです。