「宿便を取った証言者たち」として6名の方を紹介させていただきましたが、
宿便を取った方たちの後日談は全員が、想像を超えた祝福を与えられていることです。
身体も家庭も仕事もなのです。
そして今、思うと全員がクリスチャンであることです。
そしてこれは聖書に書かれている登場人物のような祝福なのです。
その聖書の原則は変わらないのだということを学ばせていただいたのです。
紹介させていただいた方たちは、
こうしたファスティングの達人であるこの人たちと同じような実に大きな祝福を得ているのです。
しかし、2005年から、一般的なホームページ開設がきっかけで
ノンクリスチャンの方もたくさん来会されるようになりましたが、私の記憶に残る宿便を除去した方は一人もおられません。
それは忍耐して待つことがないからだと思います。
5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません
とローマの教会に書き送りましたが、まさに忍耐は練達を産み、そして希望を生み出すのです。
忍耐することを覚悟しないと宿便除去はできません。
日本の医学界では、「宿便などあるわけがない」と馬鹿にしていますが、
これはこの世に「神などあるものか」という世界の常識を否定することと同じことです。
日本の医学の常識では考えられないかもしれませんが、宿便はありてあるもの。
そして体験するものであり、空想でも嘘でもでっちあげでもないのです。
まさに事実であり、ほんとうのことなのです。
私はすでに書きましたように2月にまったく想像していなかった宿便が出ましたが、
何か歯を食いしばって、宿便を取ろうと頑張ったわけでもありません。
ただ、少食を継続していただけのことです。
忍耐して取ったぞ、という頑張りイズムでもなく、人間的な努力でもありません。
ただ、ひとえに少食を実践しただけのことです。
それは私が尊敬します甲田光雄医師が、
すでに100冊を超える少食健康法で何度も書いて来られたことなのです。
ただ、ひたすら黙々と少食を継続するという忍耐力を維持することが難しいのです。
それは世間との妥協です。
「藤樹の宿」で宿便除去プログラムを開始しようとしても大半の方が、
「それは難しいです。家族、友人、会社の会食などを断れませんし、周囲に理解者がまったく、誰一人としていないからです」と言われます。
ですから藤樹の宿を創設したのです。
藤樹の宿は、周囲にファスティングや宿便に誰一人として無理解の中にあっても継続していただくサポート支援センターなのです。