毎日、便通があるから宿便など溜まっているわけがない、
というのは大きな間違いだと甲田光雄医師は指摘しておられます。
少食ファスティングをして、腸麻痺が治り、腸の蠕動運動が活発化して、便通もよくなります。
長く便秘症で困っている人も、毎日、快便があるようになります。
しかし、ここで問題は、宿便が排泄され、腸麻痺がない人が、
玄米菜食の少食をしっかり続けている方が、毎日、出る快便と、宿便をかなり溜め込んで、
大食を続けている方が、大便をところてん方式で出すのとは雲泥の差が出るのです。
ほんとうは宿便がたくさん溜まっているのに毎日1回は、
便通があるから何も心配はないというのは大きな間違いなのです。
この間違いを正すには、長期の少食断食をするか水だけの本断食をして、
全部、宿便を出し切って、腸がよく動くようにしなければならないのです。
玄米菜食で少食を継続し、毎日の便をよく観察して、便の出方を比較検討しなければならないのです。
玄米菜食で少食の方が、毎日、きちんと排泄される場合、
その方は、健康そのもののはずで、健康で明るく、生き生きしておられるはずです。
実はこの体験こそ私が2月に宿便を取ってから、今まで経験してきたことなのです。
甲田光雄医師は、この状態を「無感の状態」だと命名しておられますが、
確かに宿便が出た後、毎日の便通が楽しく、気持ちがよかったので、
「無感の状態」という甲田医師がいわれる状態、体感した者しか分からないでしょう。
これを会得することこそ健やかな老いを生きることだと甲田医師は言われますが、
まったくその通りだと思います。
自分の胃や眼がどこにあるかも全く感じない状態だとも言われますが、その通りです。
しかし、その真逆は、毎日、眼はかすむ、鼻が詰まって息がしにくい、苦しいという状態をいいます。
まず宿便を出して「無感の状態」を会得することです。
甲田光雄医師は仏教徒なので、
聖書思想だと「神の前における無の体験を得ること」と言い換えていいでしょうか。
旧約学者関根正雄や哲学者、森有正がいうところの「無信仰の中の無の経験」です。
これを霊肉と経験していたのが、コルナロでした。
ゆえに私たちもコルナロのような領域にいこうと思えばいけるのです。
この領域に行くためには、修練、習得が必要です。
安易にこの領域にいくことはできません。
甲田光雄医師もそのことを指摘されています。
これはもう哲学、信仰の領域です。
決して変な宗教ではありません。
そのような領域に行きたいという切望を持つことから始まります。
ぜひ、このブログを読む方、全員がこの領域に行きましょう。
そのためには藤樹の宿でカウンセリングを受けてください。
そうすればその道を指し示すことができますので・・・・。