多くの書籍、ネットなどに書かれています。日中戦争直後から開始されたのは、
国民精神総動員運動です。
銃後の国民生活としての自覚を強くうながす運動です。
そして1940年新体制運動となり、大政翼賛会の結成です。
この運動は国民の生活に戦時体制の強い影響が出ることになりました。
映画も戦争一色です。「勝利の日まで」が映画の主題歌として登場し、
すべての生活は戦争の勝利にというまさに決戦非常措置です。
そして国民の生活は、「撃ちてし止まん」「勝利の日まで」等のスローガンに囲まれ、
道行く人々も男性は国民服にゲートル、女性はモンペが常識とされ、
引締った服装をしなければなりませんでした。
敵国の言語使用禁止もなされ、新聞や雑誌などの統合や改題などが行われ、
「キング」は「富士」に、「オール読物」は「文芸読物」に、「サンデー毎日」は
「週間毎日」と改題され、読物の内容も戦時一色に全紙面が染まっていきました。
軍事作家が多くなり、軍国物語などが掲載されていきます。
そして日本人の主食であります米の配給統制が発令されます。
米の配給は1941年から通帳制になり、
当初は成人男子一日当り330gが基準で
性別、年令、労働の種別によって16区分されていました。
太平洋戦争が長期化して需給が窮屈になると、
基準の切り下げが再三行われていきます。
米だけではなく、配給に麦、豆類が組み込まれ、
太平洋戦争で敗戦した直後の1946年総合配給制と弥して、
ジャガイモ、コーリャン、澱粉粕まで含まれ、その主食代替配給品目は、
五十品目となっています。
特に敗戦後は、配給事情は悪化の一途を辿って、
5日が10日、さらには20日の遅配になり、
遂には遅配でなく欠配になってしまう状態となります。
国民は生きんがためには、なり振りかまわず、親類や知人につてを求めて、
何がしかの食糧を手に入れたりしましたが、それにも限度があることで、
特定の心当りのない買出しや、タンスから衣類など持ち出して物々交換したり、
手段を尽して食糧を買い求めていく悲惨な状態だったのです。
闇売りのかつぎ屋さんが、取締官に駅頭で米袋を取り上げられたり、時たま農家に出かけて、
無理に頼み込んで手にした米の入ったリュックサックを抑えられた不運の主婦もありました。
食糧管理法を破った人間を裁く立場の裁判官が、法律規則を忠実に守ったために、
餓死したのも敗戦後の日本の悲劇です。
太平洋戦争後の日本を統治した連合国の占領軍は、
このままでは少なくとも1000万人の餓死者が出るかも知れないと判断していました。