私は高校時代から玄米食を開始しましたが、
玄米食ほど誘惑にさらされるものはないことを痛感しています。
玄米食は何度も自然食ブームで注目され、開始した家庭も多いのですが、みごとに敗れていきます。
それほど銀シャリの誘惑は凄まじいのです。
明治時代に創設された陸軍は、「入隊したら銀シャリをたらふく食べれるぞ」
という勧誘に多くの農村部の若者が負けたそうです。
脚気を辞典で調べてみました。
・・・ビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1(チアミン)の欠乏によって
心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。
心不全によって足のむくみ、神経障害によって足のしびれが起きることから脚気と呼ばれる。
心臓機能の低下・不全を併発したときは、脚気衝心と呼ばれる。
最悪の場合には死亡に至る。 日本では、白米が流行した江戸において疾患が流行したため
「江戸患い」と呼ばれた。大正時代には、結核と並ぶ二大国民亡国病と言われた。
1910年代にビタミンの不足が原因と判明し治療可能となったが、
死者が1千人を下回ったのは1950年代である。
その後も1970年代にジャンクフードの偏食によるビタミン欠乏、
1990年代に点滴輸液中のビタミン欠乏によって、脚気患者が発生し問題となった。
元禄年間には、コメを精製する習慣が広まり、特に江戸で多く発生して「江戸患い」と呼ばれ、
経験的に他の精白されていない穀物を食べた。
明治時代に入り1870年(明治3年)には翌年にかけて脚気が流行。
明治末までに、毎年最小6,500人から最大15,085人死亡したとみられる。
大正以降、ビタミンB1(チアミン)を含まない精米された白米が普及するとともに
安価な移入米が増加し、副食を十分に摂らなかったため、
脚気の原因が解明されビタミンB1の純粋単離に成功した後も、多くの患者と死亡者を出した。
統計上の脚気死亡者数は、1923年(大正12年)の26,796人がピークであり、
戦後まで年間1万人~2万人で推移した。また幼児の脚気による死者が非常に多く、
大正時代末期は0-4歳の幼児死亡原因の約半数が脚気によるものであった。
ようやく死者が1千人を下回ったのは、アリナミンとその類似品が社会に浸透する1950年代後半のことであった。・・・
この説明で明らかなように白米(銀シャリ)の被害は江戸時代から確実だったのです。
銀シャリの誘惑は江戸時代からで、玄米を食べていた江戸以外ではほとんど発生していません。
そのような事態でしたが明治以降、陸軍はまったく生かされなかったのです。