私の手元に「医師たちが認めた玄米のエビデンス」という本があります。
(※エビデンスは日本では、「効果があることを示す証拠や検証結果・臨床結果を指す)
医師、管理栄養士、研究者など11名が書いた玄米の研究書です。
監修は日本総合医学会会長の渡邊昌医師です。
この日本綜合医学会は、会のサイトに次のように書かれています。
・・・明治の食医・石塚左玄が創始した「食養」の思想を継承するため、
1954年に東京大学名誉教授・二木謙三博士(文化勲章受章者)を
初代会長として設立されました。 正しい食によって疾病を予防し、
健康をつくり維持することができると考えます。
この未病の医学(食による予防医学)を医療の基本としています。・・・
NPO法人として活動していますのでいろんな意味で参考になります。
さて会長である渡辺医師の項目からレポートしていきたいと思います。
日本で玄米を中心とした食養生という思想を定着させたのは、貝原益軒でしょう。
辞典によればこのように紹介されています。
貝原益軒 (かいばら-えきけん)
・・・1630-1714 江戸時代前期-中期の儒者,本草家,教育家。
寛永7年11月14日生まれ。貝原寛斎の5男。筑前(ちくぜん)福岡藩主黒田光之につかえ,
晩年には朱子学への疑問をまとめた「大疑録」もあらわす。教育,医学,本草などにも業績をのこした。
正徳(しょうとく)4年8月27日死去。85歳。名は篤信。字(あざな)は子誠。
通称は久兵衛。別号に損軒。著作はほかに「大和本草」「養生訓」「和俗童子訓」など。
【格言など】心を平(たいらか)にして気を和(なごやか)にする。これ身を養い徳を養う工夫なり(「養生訓」)・・・
中でも「養生訓」は現代訳も発行されていますので、
よく知られた日本の食養生の元祖のような方です。
また明治になると石塚左玄が登場します。
辞典では、・・・石塚左玄(いしづか-さげん)1851-1909 明治時代の軍人。
嘉永(かえい)4年2月生まれ。福井藩医学所,大学南校化学局につとめ,
明治7年陸軍軍医試補となる。薬剤官に転じて各地の陸軍病院に勤務し,のち陸軍薬剤監。
29年予備役。玄米中心の独自の食餌療法を提唱した。
明治42年10月17日死去。59歳。福井県出身。著作に「食養長寿法」など。・・・とあります。
明治時代はドイツを中心とした医学になり、東洋医学は排除された中で
医師である石塚左玄の果たした役割は大きいものがあります。
石塚が陸軍軍医の時に書いた
「検尿必携」、「鑑薬精義」、「飲水要論」、「飲食品科学的塩類論」などで
食品のミネラルなど測定していますが、日清戦争で体を壊してしまいますが、
その後、「人類は穀物動物なり」を薬学雑誌に投稿。
そして46歳の時に食養道の基礎となる「科学的食養長寿論」を発行します。
しかし、本人はその10年後に亡くなりますが、
今もこの理論が食養道の基礎となっているのは皮肉なものです。