明治政府は西洋医学を医師免許としか認めず、今日まで同様です。
そして石塚はカリウム、ナトリウムを陰陽思想と結び合わせた健康法を提唱します。
石塚の食養会は「石塚食養所」で、全国から患者が診察に押しかけ、
1日100人の制限を設けたそうです。しかし、石塚は59歳で死にます。
その後、桜沢如一がこの会を再興します。
辞典によりますと
・・・櫻澤 如一(さくらざわ、ゆきかず)1893年10月18日 - 1966年4月24日)は、日本の思想家、マクロビオティック(食養)の提唱者。
如一は京都市東山区で生誕する。苦学を重ね商業高校、仏語学校を卒業し貿易商となる。
左玄の食養会の活動に尽力し数十の書籍を出版した。
またその成果をフランスのパリで試しに無銭武者旅行に出発し、フランスでも著作活動を開始する。
同時並行で日本に帰った時には反戦運動を行い、
その目くらましとして健康指導、翻訳活動に身を投じ、1937年には食養会の会長に就任するが
その2年後には脱会した。
1940年には滋賀県大津市にその食養の理論を東洋思想の易を交えて
独自展開する無双原理講究所を開設。
次第に再び反戦活動へと傾倒していき、戦争がはじまると軍部や右翼から暴力を受けるが、
1945年に日本が敗戦すると世界政府協会を作って、
世界連邦運動に取り組み平和を追求することになる。
その思想の根本には食による健康があった。
再び、欧州やアフリカなど世界旅行によってマクロビオティックの普及につとめ、
各地に団体や食品店が生まれ、1960年には訪米し普及に努める。
日本での団体は、メゾン・イノグラムスと経て、日本CI協会となる。
後継者にはアメリカでの普及に尽力した久司道夫、
日本では大森英桜、岡田周三といった人物がいる。・・・
石塚の唱えた食養は5点です。
1・食物至上論・・・食物が生命に変わる。したがって健康も病気も食物が決める。
2・人類穀物動物論・・・人間は肉食でも草食でもなく穀物食である。
3・身土不二(しんどふじ)論・・・「地元の旬の食品や伝統食が身体に良い。」という意味。
4・一物全体論・・・食物は皮などむかずに全体を食べる。
5・陰陽調和論・・・陰(カリウム=K)、陽(ナトリウム=Na)の調和がとれるように食物を選択すること。
5に関しては陰陽道と混同されやすいので、KとNaでいいのではないかと考えます。
石塚はカリウム=Kを幼いころは多く食べて智と体を養成し、思慮、忍耐力、根気を養う。
また道徳心、思慮を必用とする場合、カリウムの多い食事にするべきだと説きました。
しかし、ナトリウムが多いと命も短くなり、知恵も無くなるといいます。