桜沢如一の死後、アメリカに渡った久司道夫はマクロビオティックを広め、
栄養学からは佐伯矩(国立栄養研究所)が出ました。
一方では、二木 謙三という人物がいます。
玄米食を広げた医師です。この佐伯と二木の間では玄米論争が後日、繰り広げられます。
まず二木鎌三を調べてみますとウィキ辞典によれば、
・・・二木鎌三(ふたき けんぞう)【1873年(明治6年)1月10日 - 1966年(昭和41年)4月27日)は、
日本の細菌学者、医師】は、秋田県秋田市千秋明徳町、樋口順泰の二男として出生、
二木家の養子となる。
山口高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業、東京市立駒込病院に勤務。
1905年(明治38年)ドイツに留学、ミュンヘン大学教授のグルーバーに師事。
1909年(明治42年)駒込病院副院長、東大講師、医学博士、1914年(大正3年)東大助教授、
1915年(大正4年)高木逸磨等と共に「鼠咬症(そこうしょう)スピロヘータ」発見。
1919年(大正8年)駒込病院長、1921年(大正10年)東大教授。1929年(昭和4年)学士院賞受賞、
1951年(昭和26年)日本学士院会員、日本伝染病学会(現・日本感染症学会)長。
1955年(昭和30年)文化勲章授与。1966年(昭和41年)93歳で没す。
天然免疫学理の証明の実績を遺し、
玄米食の提唱、実践運動や教育者として功績を残した。
・・・とあります。
そして二木と佐伯との間に関東大震災後の主食をめぐって玄米論争が起こったのです。
佐伯矩は、辞典によれば
・・・「佐伯 矩(さいき ただす、1876年9月1日 - 1959年11月29日)は、
日本の医学博士で、栄養学の創始者、栄養学の父である。
医学から栄養学を独立させ、栄養研究所、栄養士制度を発展させた。
自分で料理をすることはほとんどなかった」
という人物です。
佐伯の所属する国立栄養研究所は、1914年に佐伯矩によって設立された、世界初の栄養学研究機関である営養研究所です。
この組織は、
・・・1919年に内務省の栄養研究所として設置され、変遷を経て2001年より独立行政法人となったが、
2015年に医薬基盤研究所と統合し、医薬基盤・健康・栄養研究所の傘下機関となった。」
その論争を見ると佐伯の栄養研究所は、
・・・七分に搗いた米を「標準米」として普及させようとしていた。
1930年(昭和5年)に出版された佐伯矩の『栄養之合理化』では、
白米では便の量が少ないので消化吸収の効率が高いが、
糠に含まれていた栄養分がなくなっているので
副食の組み合わせに注意しないと脚気になると説明している。
また、玄米は栄養が多いが未消化物が多いので消化吸収の効率が悪いなど摂取を推奨していない。
研究の結果、脚気の心配のない七分搗の無洗米がよいという結論になったという。
佐伯矩の『栄養』では「淘洗は精白にも優る米食人の禍根である」と、
精白米を淘洗(とぎ洗い)した場合の栄養の損失を問題視している。・・・
こうした理由で、佐伯は七分つきの玄米食を「標準米」として普及させようとしたのです。
では二木はどうだったのでしょうか。