石塚左玄の食養論ですが、陸軍の薬剤官である左玄の立ち上げた食養論は、
マクロビオティックの基礎理論となった考え方で、玄米を基本とした食事療法です。
肉や乳製品を食べないと強い身体が作れないという風潮が強くなったのに対し、
人間の食物は玄米を主体とした穀物であり、野菜や肉食に偏ることなく、
その土地のその季節に出来るものをバランスよく食べることだと唱えました。
この理論には、一物全体・身土不二があります。
刺身のような部分だけや、皮をむいてしまったり、
白米、精白小麦粉、白砂糖のように部分や精製されたものを食べれば、
多病で脆弱な人間になる、魚だったら全体を、米も白米ではなく全体を食べよ。(一物全体)
自分が住む土地で育った食物を基本とすること。(身土不二(しんどふに)。
身土不二とは仏教用語で、「因果応報」という言葉であり、その土地が人の身体を作り上げる、
地元の食品が身体には一番良いとした考えです。
今の健康雑誌に書かれている内容とほぼ同じ事だというのが分かるかと思います。
この考え方は、実は如一が生まれた頃には既に誕生していました。
明治政府は文明開化を急ぐあまり、医師の資格を免許制度にして、
それまで日本が伝統的に取りいれてきた漢方医学はとりいれず、
西洋医学のみを国家の医学として、医療を国の管理下におきました。
ドイツに留学をして西洋医学を学んだ森鴎外が唱えた欧米式の栄養学こそが、
当時の医学の主流だったのです。
左玄の唱えた食養論は禁欲主義的で、賛同者も多くありません。
今と同じく健康志向の一部の人のものだったようです。
健康回復をした如一は高校を卒業後、食養会に加入し、食養論を実践するかたわら、
神戸フランス語学校にてフランス語を学びます。
その縁もあり、遠洋航路の仕事につき1年間海外を廻ります。
様々な経験を通して如一は語学力と貿易の実務を学ぶのです。
その後貿易を会社を興すなど実業家としても活躍しました。
1929年(昭和4年)、如一はそれまでの全ての事業に終止符を打ち、
陸軍の薬剤官である左玄の立ち上げた食養会には、
華族をはじめ政治家や軍の上層部などそうそうたる会員が名を連ねており、
そうした人々との人脈も出来、会の監事としての手腕は高く評価されていましたが、
しょせん井の中の蛙ではないかという思いが頭の隅から拭いされなかった・・・と、
自叙伝には書かれております。
【解説】
桜沢如一の前半生の紹介です。
すでに3月2日~5日まで食養道の流れで紹介した左玄や桜田ですが、
日本独自の道を究めていくのは、内村鑑三の無教会にも共通点があります。
最初は少数派であり、日本的でしたが、後日、大きく開花することおいてです。