この戦前の時代は、大正末期に北大路魯山人が作った美食倶楽部「星岡茶寮」が大人気で、
美食や西洋の栄養学が隆盛を極めていた時代です。
故に、この粗食をモットーとした食養会は健康クラブ的な集まりに過ぎず、如一は、
この左玄の食養理論を哲学的に高めなければ世界性・普遍性がないと考えたのです。
そして易経や陰陽理論を学び、仏教書などを読み漁るうちに、閃いたのだそうです。
「食べ物とは生きとし生きるもの。宇宙の理論もすべて陰陽で成り立っている。
左玄先生の食事療法も陰陽原理で説明できるのではないか。」如一は、
無双理論《陰陽原理の食養理論》と名付けたこの理論を、非常に革命的な発見と思いましたが、
中々日本では注目を浴びません。
そこで、1929年37歳の時に家族を捨て、シベリヤからフランスへ無銭武者修行に出る事にしたのです。
時代は世界大恐慌の真っ只中、
「10歳にもならない長男が、それから数年間大塚駅で新聞売り子をした」と、
他人事のように自叙伝には書いていますから、文字通り、家族を捨てて路頭に迷わせたようです。
パリで乞食のような生活をしている内に、
パリ郊外でバンコク学生夏期講習キャンプが開かれるというので、
ボランティアの炊事係りを申し出ました。
フランス人からみたら、アジア人の料理人的な感覚だったのでしょう。
そんなある日、独りの女子学生が身体の不調を訴え、
石塚左玄が発見した「ショウガ湿布」をつくり治してあげると、
その噂がすぐに広まり、身体の不調の相談に来る者が相次いだのです。
キャンプの参加者は裕福な家の学生が多かったので、その噂は父兄にも伝わり、
食事療法と一緒に茶道や華道も披露したことから、東洋文化の伝達者ということで、
注目を浴びるようになります。
次回、彼の性格解析も行いますが、人々を自然に惹きつける独特の魅力の持主だったようで、
人から人の恩恵で運をつかんでいきます。
ソルボンヌ大学で食養の講演を依頼され、それを機にソルボンヌ大学やパスツール研究所で
化学や宗教心理、インド思想などの講義を受けるなど、様々な知識を吸収することで、
その集大成として、渡仏して3年目に「東洋の哲学および科学の無双原理」を書き上げます。
この本は5年後に「無双原理・易」として日本語でも出版されたのです。
3年間でフランス語で専門書を書くなど、明治の男の気骨ははんぱありません。
【解説】
桜田の発見は凄いものですが、日本では駄目だと海外(フランス)に渡ったのは凄いことです。
しかも妻子も家族もすべてを捨てですから、その決断は「凄まじい」の一言に尽きます。
そのような決断があってこそ今日のマクロビが存在するのでしょう。