聖書は道徳の書でもなく、古典でもありません。
聖書の言葉は、今も読む人々に生きて働いています。
言葉はいのちであり霊であり、
読む私たちに毎日、その時その時に啓示として語られるものです。
ところがあるキリスト教会の牧師の説教を聞いて驚いたのは、
使徒言行録でパウロたちを異教世界に断食して派遣した箇所だったのですが、
牧師は、この時の初代教の断食はその時代のことで
今日の私たちとは関係ないということを語られ、唖然としました。
それならば断食だけではなく、聖書の出来事はすべて過去のこととして古典的にとらえて、
道徳、教訓の書として読んでいるということになります。
これは牧師としてあり得ないことです。
主日の礼拝で語られていることは、いったい何なのでしょうか。
断食についてこういう解釈なので、当然、この教会では、断食祈祷などありません。
しかし、聖書の言葉は今も生きています。
クリスチャンがなぜ断食をしなければならないのでしょうか。
聖書の断食を検索して調べていくと下記のことがクローズアップされてきます。
1・神の御旨を訪ね求めるため(エステル記)
2・礼拝の捧げものとして断食(士師記)
3・悔い改めの断食(ヨナ書)
4・嘆き悲しみのために(サムエル下)
5・謙遜にしてへりくだるため(イザヤ)
7・イエス・キリストの40日断食
8・花婿断食(マルコ、ヨハネ黙示)
11・長老たちの任命のため(使徒言行録)
12・再臨の待ち臨みのため(ルカ)
これで断食は聖書の根幹に関わることが分かります。
これは初代教会の時代だけのことだったら、
キリスト教会はとっくのまに地中海の海の藻屑と歴史のかなたに消え去っていたことでしょう。