ユダヤ教の経典であり、キリスト教、イスラム教の経典であります
旧約聖書の創世記の第2章は、人の創造物語が2つ出てきますが、
その第一はこのように書かれています。
創世記
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
泥で人形をつくる遊びをしたことがありますか。
学校で、粘土細工などで人形や動物を作った時、ある程度の水は必要です。
ですから土に水を入れてというのなら分かりますが、
なぜ聖書では、「塵(ちり)」なのでしょうか。
塵を辞典で調べますと「一般に、ホコリや目に見えない微小な砂などの粒子である。」
とあります。
なぜここで塵なのでしょうか。
土の塵という意味は何なのでしょうか。
それは私たちが塵のような存在だということを創世記の著者は語っているのです。
いや塵に等しいものに過ぎない、
人間とはそのような弱い存在なのだということを土だけではなく、
わざわざ塵と入れたのです。
では自分は塵のような存在にすぎないということを
私たちはどこで受け取ることができますか。
それは断食して主に叫び求めることを通してだけ、可能なのです。
その一例を聖書で見ましょう。
イスラエル再興の使命を担って帰国したネヘミヤハカルヤの息子であるネヘミヤは、
紀元前586年に新バビロニアによってエルサレムが陥落したあと
バビロンに移され、ユダヤ捕囚民の一人)の記録です。
ネヘミヤが、再興のために共に祖国イスラエルに帰って
来た民にこのように呼びかけました。
ネヘミヤ記
9:1 その月の二十四日に、イスラエルの人々は集まって断食し、粗布(そふ)まとい、土をその身に振りかけた。
ネヘミヤは、質素な綿布(粗布)を集まった民全員に身にまとわせ、
土のような塵をその身に振りかけたのです。
そして神の前に出て礼拝したのです。
自分は神の前に徹底的に底くされた者に過ぎないということを
このような形で現したのです。
するとどのようなことがイスラエルの民の中に起こったのでしょうか。
ネヘミヤ記にはこのように記されています。
ネヘミヤ記
9:2 イスラエルの血筋の者は異民族との関係を一切断ち、進み出て、自分たちの罪科と先祖の罪悪を告白した。
9:3 彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。
このネヘミヤは断食民族ユダヤ人(教)形成した立役者だと思いますので、
次回、さらに詳しく見ていきましょう。
いずれにせよ、私たちは断食を通して塵のような存在だ
ということを認識しなければならないのです。