ウェールズで霊的復興は、日本にはほとんど影響がありませんでした。
そして断食祈祷も日本には本格的に導入はされませんでした。
私は25年間、断食の世界に関わってきましたが、
日本人(日本教)に「断食」と言う言葉がないのと同じように
日本人クリスチャンにも「断食祈祷」と言う言葉は存在していないと確信しています。
そもそも断食して祈るということ自体が、存在していないのです。
では断食祈祷院は日本国内にあることはありますが、
断食の猿真似だけなのです。
聖書の求める本格的な聖書断食祈祷はありません。
日本のクリスチャンの場合、
「断食」は苦行、修行、律法だという捉え方が根強いのです。
私は無教会指導者であり、
日本を代表する旧約聖書学者、関根正雄先生(故人)を大変、尊敬する者ですが、
関根先生の著作を読む限り、あれだけ旧約聖書に精通し、
ユダヤ教徒とも大変、親しい交わりをもっておられた方がでしたが、
断食に関して、ものすぐ否定的でした。
信仰は行いでもなく、修行でもないという視点からなのです。
また高校時代から師事しました同じく無教会の指導者、高橋三郎先生も同じでした。
お二人とも東京大学トップクラスの極めて優秀な学者であり、
日本の知識人の代表のような方ですが、
断食と断食祈祷に関しては完璧な否定だったのです。
私が豊田市に断食施設を解説した時に高橋先生から手紙をいただきました。
その内容も驚くべきもので、ルター研究で有名な論文を書いておられたのですが、
ルターが断食をしていたことを指摘したら、
それこそ烈火のごとき怒りでした。
その後、日本キリスト教団の礼拝に参加するようになりましたが、
断食は頭から否定されてしまいました。
そして豊田市に断食道場を開設したのですが、
聖書の求める断食とは月とスッポンでした。
私の求める断食、いや聖書の神の求める断食は下記の断食ですが、
このような姿勢で断食祈祷に来られたのは皆無です。
58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
なぜ日本のキリスト教会で断食祈祷がイザヤの求める断食
このようなかい離があるでしょうか。
それは日本国のために真剣な命がけの断食祈祷に追い込まれていないからなのです。
全部、自己目的に終始しているからなのです。