いよいよ105歳。7月18日に天に召されていきます。
その誕生日のエッセイです。
・・・大勢の方から「おめでとう」と祝福され、
「私は何という幸せ者か」としみじみ思います。
その一方で、実は「さて、私は本当に幸福なのだろうか?」
と立ち止まって考えていることも事実なのです。
「もっと生きたい」というのは、私の本音です。
これは皆さんにはいかにも私の「欲望」のように受け取られるかもしれません。
でずが、考えてみれば人間というものは、
「せっかく与えられたいのちなのだから、最後まで生き抜きたい」と
自然に思うものではないでしょうか。
特に私は日頃から「いのちの授業」で、10歳の子どもたちに「
いのちという、それぞれに与えられた時間を、
自分以外の誰かのために使って生きて欲しい」と呼びかけているので、
なおさら自分自身が範を示さなくてはなりません。
この不思議な気持ちは何なのかと思っていると、
先日、こんな具体的なイメージが頭の中にひらめきました。
いのちという宝船に乗って大海原を進む。
たとえるなら、それが今の私の心情です。
この船には強力なエンジンがあるわけでもなく、積み荷もわずかです。
けれども大きなうちわで風を送る程度の動力でも、
静かにゆつくり進んでいくことができるのです。
そんな船でも海原に出れば、私にとっての新しい世界が目の前に、
一つまた一つと広がっていきます。
この先には大きな嵐が待ち構えているかもしれませんが、
それでも私は宝物を載せているような満ち足りた思いで、
今日に至るまで、大海原での航海を続けているのです。
リオデジャネイロのオリンピックをテレビで楽しみ、
2020年の東京大会を待ち遠しく感じました。
その時まで生きることができれば、
私はその年には109歳ということになります。・・・
この日野原先生の文章を読むと多くの人が、誕生日祝いをしてくれて、
「おめでとう」と祝福されても「私は本当に幸福なのだろうか?」と
考えてしまうというのは、
ある意味では単独者としての孤独を味わうことであり、
天に召されていくのもその孤独の中で神とイエスに出会う喜びがあるので、
孤独と言われるのはクリスチャンとしての立場ではなく、
2020年まで生きたいという人間の本能的要求だと思います。
この本を読んでとにかく101歳になられたら
どこも出かけずに教会堂で祈っていただく生活をしていただきたかったと切に思います。
それはモーセのような最後です。
ならばほんとうにモーセのように120歳まで日野原先生の存在を意識して、
歩むことができたことでしょう。
少し急ぎすぎた101歳からのラストスパートであったと残念に思います。