民衆を救っていくことのためなら自分は死んでもいい、という覚悟でやってきたと語っています。
だから、台湾は立派な国家になることができたのです。
李登輝が決意した「台湾のためなら私は死んでもいい」
というものを持ってことに当たること覚悟が必要だということです。
武士道とは、自分の命をかけるもの持ち、「生きるための死」を選ぶことでした。
死んだ気でやって、できないことは何一つありません。
ヨーロッパの修道士たちは、いつも「メメント・モリ」(memennto mori 死を思え)
という合い言葉で全世界にキリストの福音を携えて宣教に出ていきました。
つまり徹底して死を追求していくところに、本当の人生が始まるという意味なのです。
人生は一回限り、後戻りできません。
死の向こうは天国です。死は通過点にすぎません。
そこに至るまでの一日一日を精一杯生き抜くのです。
それには「何のために死ぬか」というものをしっかり持つことです。
武士道では、死ぬに値しないことのために死ぬことは「犬死」と呼ばれました。
一方、命をかける価値のあるもののために死ぬことは「名誉」と考えられました。
水戸光圀は「戦場に駆けいって討ち死にすることは、誰にでもできることだ。
生きるべき時は生き、死ぬべきときにのみ死ぬことを真の勇気という」と言っています。
何のために死ぬかを、ふだんからしっかり持っていることが大切なのです。
まさに「武士道というは死ぬことと見つけたり」――
そして、このことの最高の模範は、イエス・キリストの生涯なのです。
イエス・キリストは、この地上に何のために来られたのか。
それは十字架にかかって死んで、私たちのために救いの道を開くためでした。
死ぬためにこの地上に来られたのです。
死というものの意味を徹底的に追及されたお方なのです。
そしてイエス・キリストは決して死から逃げなかったのです。
その身代わりの死によって、私たち人間に、罪と滅びから救われる道が開かれることを知っておられた。
その死という一点に向かって、3年の公生涯を歩まれたのです。
その死によって、人々の救いが成し遂げられる。死は救いを目的としていました。
人々の救い、世界の救い、そのためにイエス・キリストは死なれた。
まさに「私の生涯は死ぬことと見つけたり」であり、
イエス・キリストこそ武士道の最高の体現者なのです。
「このためには死んでもいいんだ」というものをはっきり持っておられた方なのです。
日本の指導者には台湾総統・李登輝のような死の覚悟がありません。