最後の聖書講義のタイトルが、柏木の聖書講堂で語ったのは、
「パウロの武士道」(昭和5年・1930年1月20日)でした。
内村の生き方のすべてが、武士道であったのです。
明治、大正、昭和の時代に多大な影響を与えました。
明治24年の不敬事件では、内村は天皇の神格化に抵抗しましたし、
それで一高(東大)教授を追われ、新聞や後世に残る著述活動に入り、
日露戦争以後は、職を賭けて非戦論を唱え、
それは戦後の平和憲法のベースになっています。
明治以後の日本人の中で、内村はまさに武士道精神に生き、
真剣な生命を賭けた戦さの連続でした。
「青年よ、大志をいだけ」を残したクラークのキリスト信仰に導かれ、
二人ともクリスチャン武士道精神に生きて、
世界に日本に多大な影響を与えたのです。
内村はクラークの大学、アマスト大学に学び、シーリー総長を通して、
キリストの十字架の神髄を武士道的に把握し、回心し、
日本に帰国後、教育者、社会評論家として活躍し、「聖書の研究」誌を創刊し、
無教会キリスト教を提唱しましたが、それはまさに武士道そのものでした。
私は高校2年生の時に内村鑑三の著作に出会い、
以後、今日まで内村の書によって導かれてきました。
それは内村の中に脈々と流れる聖書・聖霊による武士道の精神に触れたからにほかなりません。
私が高校時代にアメリカ的な西欧かぶれのキリスト教会であれば、棄教していたことでしょう。
そして私が27歳の時から開始した保険営業は、
武士の戦さ、武士道精神で中小企業を攻略していきました。
もし内村鑑三や新渡戸稲造の武士道精神充満のキリスト教でなかったら、
保険の世界で成功は絶対にしていなかったことでしょう。
毎日、企業に訪問する時に武士道精神をフル活用して切り込んでいきました。
この保険営業の世界で毎日、斬り合いの戦さをしていましたので、
日本キリスト教団や福音派の礼拝などに参加しましても波長がまったく合いませんでした。
まだかろうじて武士道精神が残っている無教会は何とか平安がありました。
しかし、無教会は武士道精神には、霊的な戦いは全く無力でした。
そこで私は霊の戦いを標榜している聖霊派のグループに1993年に移籍しましたが、
23年の経験から形ばかりで中身なしということが分かりました。
それは武士道精神の欠如であり、
しかも霊的な戦いの指針がすべて海外の宣教師依存であったからです。
内村鑑三や新渡戸稲造のようにもがいて会得したキリスト信仰は完璧に欠如していたのです。
最近、ようやく、もう一度、武士道精神に引き戻され、霊的な戦さへの備えをしています。