・・・義は、武士道の中でも最も厳しい教訓である。
武士にとって、卑劣な行動や不正な行為ほど忌むべきものはない。
義の観念には、あるいは誤ったところがあるかもしれないし、
狭少なところがありかもしれない。・・・
李登輝の「武士道解題」では、義は武士だけのもんだいではなく、
人間全体の生き方、人類社会全体にかかわる根本的な問題として
とらえなければならないといいます。
新渡戸はほんとうの義とは「神との正しい関係」であり、公義といわれ、
それに生きたアブラハムは義人と呼ばれたのです。
義は神の側から見て、「神の義」への律法にかなう生き方を意味します。
これは東洋思想になく、契約観念、すなわち「人間と神との契約」の観念が極めて薄いということです。
新渡戸は武士道は義は中核であると書きましたが、
残念ながら江戸時代に変質して「義理人情」になってしまい、
新渡戸は義を貫徹する武士道を提唱したのです。
そして義の裏打ちが「勇」であり、双子の兄弟だといいます。
抽象的な義だけあっても、それを実行するために勇気がなければ何もできない。
新渡戸は義の本質は「義務」ともいいます。
これは国際社会で日本が本当に尊敬されるために最も必要なものです。
・・・義理という言葉は、もともと「正義の道理」という意味であったが、時代を経るにしたがい、
漠然とした義務の観念を意味するようになって、世論が人々に対して、
これを守り行うことを期待する言葉となってしまった。
義理という言葉が、本来もっている純粋な意味は、単純で明快な義務という言葉であった。
【解説】
新渡戸は武士道の根本教義のトップに義をあげていますが、
日本ではその武士道の中核の義が義理人情というものに変質してしまっていることを書いています。
日本は実に不思議なことですが、何もかも変質させてしまうのが得意です。
武士道の義を昇華できるのは、キリスト教の義であることを新渡戸が語っているのです。
日本では義理の社会であることを今日もしばしば思い知らされますが、
それは聖書やキリスト教が示す「義」とはかなり違います。
おそらく日本人ほど義を歪曲化している思想はないでしょう。
しかし、武士道の義を正しくキリスト教に接ぎ木すれば、
武士道の義は大きな実を結びます。
かといって西欧臭い義ではダメです。
正義貫徹の武士道的な義が求められているのです。