「仁」と「礼」は密接な関係があり、新渡戸稲造は武士道をみごとな体系へと導いていきます。
・・・礼儀の最高の形はほとんど愛に近い。われわれは敬愛なる気持ちを持って、(聖書の言葉の礼の一字をかえて)
「礼は寛容であって人の利をはかる。礼は妬まず、誇らず、たかぶらず、非礼を行わず、自分の利を求めず、軽々しく怒らず、人の悪を想わない」
といえるだろう。
私は礼儀を尊ぶが、これを諸道徳の第一位に置こうとするものではない。
礼を解明してみれば、ほかのさらに高貴な道徳と相関関係にあることを見出すであろう。
どのような徳でも孤立しては存在しえない。
礼は武人特有の徳として賞賛され、それが賞すべき価値以上に尊重されるようになり、
いやむしろ、それほど高く尊重されたがために、その偽り物が生まれてしまった。
孔子も繰り返し教えている。
「虚礼がまことの礼ではないことは、ただ音を響かすことが音楽ではないとの同じである」と。
礼が重視されて社交の必須条件になると、
当然、若者に社交の正しいふるまい方をおしえるための詳細な行儀作法の体系が広まった。
挨拶のときの頭の下げ方、歩き方や座り方が最新の注意をもって教えられ、学ばれた。
食事の作法は学問にまで発展し、茶を点じて喫むことも礼式まで高められ、
教養ある者は、当然、すべての作法に通じていると思われるようになった。
・・茶の湯の道の第一義は、心の平成と感情の明澄、立居振舞いの静隠であって、
それは正しい思索と感情を生み出す第一の要件である。・・・
「武士道」と不即不離の関係にあるものと見なければならない。
織田信長が堺の町の経済力を吸収するため、今井宗久、千利久など茶の湯を司り、
千利久は茶の湯の大成者といわれのは、茶道の日常性と非日常性とを徹底的に追求したからです。
【解説】
日本人の茶道は武士道と不可分利の関係にあること新渡戸は伝えています。解読した李登輝は、
「日本人は非常に礼儀正しいがこれが実態をともなわないことが多い」と指摘しています。
ただお茶を飲むというのを昇華して武士道につなげたようにファスティングも必ず、
武士道に接続させれば、世界に誇るべき超少食ファスティングが、
サムライ・ファスティングとして全世界に拡大していくことでしょう。