・・・封建道徳には、他の道徳体系や武士以外の階級にも共通しているものも多くあった。
しかし、この目上の者に対する服従と忠誠の徳は、
封建道徳の中ではっきりとその特色を示すものである。
あらゆる種類や境遇における人間の間に、忠誠が重んじられたことは私もよく知っている。
忠誠が最も重んじられたのは、武士の名誉にかかわる規範においてのみだった。
・・西洋の個人主義は、父と子、夫と妻に対しても、それぞれの利害を認めているので、
人の他に対して負う義務は必然的に相当軽くなる。だが武士は、
一家とその家族の利害は一体であってわけることができず、
その利害は愛情と結びついており、自然でかつ本能的なもので、これに抵抗することができない。
われわれはこの自然愛によって、愛する者のために死ぬことができるとしたら、それはどういうことなのか?
「なぜなら、あなたがたは自分の愛する者を愛したとしても、何の報いがあるだろうか?
取税人であったとしても同じことをするだろうか?」
平重盛の父の法王に対する反逆に関する苦悩を切々と述べている。
「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず」と。・・・
「忠義」は完全に太平洋戦争敗戦と同時に捨て去って否定した日本。
自分が生まれ育った祖国に対する愛情、
「私は日本人以外の何者でもない」という自己認識なくして、
日本国民が国際社会から信用されるわけもないということは、
「ロイヤリティー」という言葉をことのほか大切にする欧米諸国の個人主義の観点からも明白です。
それなのに日本の指導者たちは、このようなアイデンティティーをいとも簡単に捨て去ったのです。
日本では少年の非行、凶悪犯罪が相次ぎましたが、その遠因は、
「個人」と「国家」や「社会」などとの密接な結びつきが見えない、
アイデンティティーの喪失現象にあるのは、火を見るよりも明らかです。
・・武士道を捨てた日本人は、れは「忠」と「孝」を対比させ、
「本当の忠義とは?」という本質的な問題にはいろうとしている、
新渡戸の「武士道」の中で最も注目すべき一節です。
日本の武士道は、家族と成員の利害は絶対不可分の関係なので
平重盛のような葛藤が生まれます。
戦後教育の中で育てられてきた日本人にとって、
主君にわが子を捧げるような話は全く信じられないことです。
【解説】
新渡戸は西欧のロイヤリティーと日本のロイヤリティーを子細に比較しています。
それが今回の項目でした。
李登輝が日本人の捨て去った武士道というロイヤリティーが回復することを願っていますが、
日本人を取り戻す作業が必要です。
それがサムライ・ファスティングです。