・・・切腹を聞く者は「腹を切るとは何と不合理なことか!」と叫ぶであろう。
確かに外国人の耳には、奇怪なものに聞こえるかもしれない。
しかし、シェークスピアのジュリアス・シーザーを読めば奇異な感じをしないであろう。
・・切腹が我々には、まったく不合理性を感じさせないのは、
そこ(腹部)に霊魂と愛情の宿るところだという古代の解剖学的信念に基づくものである。
モーセは「ヨセフはその弟のために、はらわたが焼けるほどに痛む」とあり、
ダビデも「神がはらわたをわすれざることを」と祈っている。
他にもイザヤ、エレミヤなど(大預言者は)旧約聖書で霊感を受けた者たちは
「はらわたが鳴る」、「はらわたが痛む」と言う。
これらのことは、腹に霊魂が宿っているものとした日本人の信仰を是認したものではないか。
感情および生命の宿るところとしていた。
「腹」はギリシャ語でフレン、ツーモースで意味は広い。
フランスのデカルトも勇気の意味で使っている。
・・読者は切腹がたんなる自殺行為でないことがわかったであろうか。
切腹は法律上ならびに礼法上の制度であった。
切腹はわが国の中世にはじまって、武士がその罪をつぐない、
過ちを謝し、恥をまぬがれ、友人につぐない、
そして自分の誠実を証明する方法であった。
それが法律上の刑罰として命じられた時には荘厳な儀式をもって執り行われた。
切腹は洗練された自殺であって、感情の冷静さと態度の沈着さとがなくては、
誰もこれを実行することはできなかった。それゆえに切腹は、
とくに武士にとってふさわしい作法だったのである。
・・切腹や仇討の二つの制度は、近代刑法が施行されるとともにその存在理由を失った。
美しい乙女が身をやつして父の敵を訪ねるロマンチックな冒険を耳にすることは
もはやないし、家族の敵を撃つ悲劇をみることももはやない。
宮本武蔵に武者修行は、今、ただ昔話にすぎない。
規律正しい警察が、被害者のために犯人を見つけ出し、法律が正義を行う。
【解説】
私は昨年、テレビ朝日のドラマ「ハゲタカ」が大好きです。
父親が銀行の罠に嵌められ、大蔵省の玄関で切腹をするシーンが何度も出てきます。
息子の鷲津はアメリカのファンド会社の日本代表として、
腐った日本を買い叩くために来日しますが、
彼の身上は、「生きている」ということと「覚悟」でした。
日本人には覚悟がないというメッセージは、
今の日本の社会のすべてに通じます。
それは武士道の精神が生きていないからです。
武士道とは覚悟なりきです。