妻を意味する漢字の「婦」は、箒(ほうき)を持っている女という意味であるが、
もつともその箒をふるって、夫に対して攻撃に出たり、
あるいは防御したりするものではなく、また魔法をかけるためではない。
箒の無害な本来の用途においてである。
「婦」という観念は英語の妻(wife)の語源が、織る人(weaver)から出ており、
娘(daughter)が牛乳しぼり(duhitar)より出ているのと同様に、家庭的である。
‥武士道の女性の理想像とは、一見矛盾するようであるが、
武士道の教訓からすれば、この二つは決して両立できないものではない。
武士道はもともと男子のために設けられた教訓であったので、
その夫人に求められた徳性も、いわゆる女性的なるものからかけ離れていた。
しかし、武士道では女性の弱さより、自分を解放して、
たくましさを発揮する布陣を称賛した。
それゆえに少女の頃から自分の感情を押さえ、その神経を強くすることを修練し、
不慮の事態が起こったら、武器を持って、ことに薙刀という長い柄の刀を用いて、
自分の身を守ることが訓練された。
しかし女性の武芸は、戦場で用いるためではなく、むしろ一身のため、
家庭のためのものであった。
自分では主君を持たない女性は、自分で自分を守った。
女性は夫が主君を守のと同じ熱意で自分の尊厳を自分の武器で守った。
女性の武芸が家庭で利用される機会は、息子の教育であった。
・・婦人は剣術などの武芸を実際に用いることはほとんどなかったが、
彼女らの家庭における非活動的な習慣を補う、健康上の効用があった。
・・わが国の文学史上、最も優れた和歌や俳句などにも彼女らの感情を表現している。
舞踊はその立ち振る舞いを優雅にするためであり、
音楽は父や夫の気持ちを慰めるためであった。
それらの究極の目的は、心を清めることであり、心が平らかでなければ、
音もおのずから整わないといわれた。
私は先に青年武士の教育においては、芸道は常に道徳的価値に対し、
それに付属する地位にある、と言ったが、女性の場合も同様であった。
舞踊や音楽は、生活に優雅さと明るさを付け加えれば充分であって、
決して虚栄心や贅沢心を養うためではなかった。
武家の女性の芸事は、みせるためのもではなく、
出世のために学んだものではなかった。
それは家庭における娯楽であって、社交の席でその技を示すことがあっても、
それは主婦の務めとして、家の客を歓待する一つの方法にすぎなかった。
・・妻として夫のために母として子供のために彼女らはおのれを犠牲にした。
こうして女性は幼少のころより、おのれを空しくすることを教えられた。
【解説】
この武士道に生きた八重を見事に描いていると思っています。
視聴率が悪かったのが残念でしたが、
新渡戸が言わんとする女性の武士道精神を見事に描いていました。
このような大河ドラマを評価できないのは、
日本人の道徳的レベルが相当、低下したということにほかなりません。