代表的著作「日本的霊性」は1944年の発行ですが、
内村は50年前に「代表的日本人」の中で
仏教思想家の鈴木大拙は、
・・・宗教が深まるから霊性が深まるのではなく、
霊性が深まるから宗教が分かる・・・
と書いています。
つまり万人の中に霊性は宿っているというのですが、
内村は「代表的日本人」に登場した5人の中に
日本人の霊性があったことを正しく見抜いた
稀な思想家といえます。
そして内村の卓越した英文で世界に問うた「代表的日本人」は、
欧米で日本人理解の一級のテキストとして用いられています。
考えてみれば欧米の誰もが知らない5人の人物。
日本人でも今や、この5人全員を知っているわけでもないのに
まして欧米のキリスト教国で、異教徒の5人を書いた「代表的日本人」が
どうして今もなお読まれ続けているのかです。
それは宗教としての神ではなく、
神の存在を少なくともキリスト教の神を指示す天の存在を見た
内村の霊性に共感したからこそ今も愛読されているのでしょう。
「代表的日本人」が発刊された同じころ
「後世への最大遺物」が発行されましたが、そこには
・・・もし私たちの生涯が50年で消えてしまうならば実につまらぬものである。
私は未来永遠に私を準備するためにこの世の中に来て、私の流す涙も、
私の心を喜ばすもの、喜怒哀楽など、私の霊魂をだんだん作り上げて、
ついに私は死なない人間となってこの世を去ってから、
もっと清い生涯をいつまでもおくらんとするは、私の持っている確信でなのす。・・・
つまり「代表的日本人」に登場させた5人の人物は、
自分の心の中に生きて働いている人たちであるというのです。
その5人との対話記録が、「代表的日本人」なのです。
これから紹介する5人は単なる伝記ではありません。
そして多くの文献を駆使して描いた伝記ではないのです。
まるで5人と今、会ってきたかのように書かれている内村の中に生きる物語なのです。
まさに霊性、スピリチュアルの対話形式となっているのです。
人間の生涯は肉の死で終わるものではなく、
死んだ後も生きて働く、持続するといいます。
そして人間は霊性において永遠なる存在であり、
今も私の中に息づいていると内村はとらえて、
「代表的日本人」の5人をまさに日本人の代表として登場させたのです。
彼らの共通点は、サムライ、武士道精神だったのです。
日本人としてキリスト教に出会い、
それを受容したからこそ語れる日本人と中に流れるものを語ることができたのです。
こうした作業は、
もし日本教に埋没していたら、
絶対に見えてこないものを
キリストという鏡でもう一度、よく観察して、
武士道をみごとによみがえらせたのです。
ですから私は、
日本人のファスティングは、
「サムライ・ファスティング」でないと日本には
定着しないと確信しているのです。