内村はかなりのペースを割いて考察しています。
・・・「天は人も我も同一に愛したまうゆえ、我を愛する心をもって人を愛するなり」
という西郷の言葉には、律法と予言者の思想が込められており、
西郷がそのような壮大な教えをどこから得たのか興味深いところである。
「天」を相手にするには、真心を尽くさなければならない。
さもなければ、その道について知ることはできない。
西郷は人間の知恵を嫌い、すべての知恵は高潔な心と志から生まれるものだとした。
心を清くして志を高く持てば、戦場でも議場でも、
必要なときに道はすぐにも開ける。
いつも策を練っている者は、危機が迫ったときには無策なのだ。
西郷は「至誠の域は、まず慎独より手を下すべし。
間居即慎独の場所なり」と言っている。
不誠実とその落とし子である利己心は、人生の失敗の主な原因である。
「総じて人は己に克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。
事業を創起する人、その事たいてい十に七八まではよく成しうる人の希れなるは、
功立ち、名顕るるにしたがい、いつしか自ら愛する心起こり、慎みの心ゆるみ、
その事業を頼み、いやしくもわが事を成し遂げんとしてまずき仕事に陥り、
ついに敗るるものなり」と西郷は言う。
だから我々は命がけで、人生のあらゆる危機に立ち向かわなければならないのだ。
「我が命を捧げる」とは、西郷が責任ある立場で、
何かの行動を申し出た時によく口にした言葉だ。完全な自己否定の精神が、
西郷の勇気の秘密であったことは、次の注目すべき言葉からも明らかである。
「命もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。
この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
「天」を信じ、その法を信じ、またその時を信じた西郷は、
自分のことも信じていた。「天」を信じることは、
常に自分を信じることでもあったからだ。
「断じて行えば、鬼神もこれを避ける」と西郷は言った。・・・
内村鑑三は西郷のようなラスト・サムライに生きた生き様をもって生きた人生でした。
西郷のように天から聞いた、いや聖書の言葉から聞いて人生を歩んだからです。
それは日本の武士の生き方に見ているのです。
今日、スピリチュアルの大ブームです。
そしてそれを巧みに操る指導者によってマインドコントロールされて信じ込み、
〇〇先生教団がまことしややかに成立しています。
そのようないかがわしい生き方で騙されて気が付かずに一生懸命、
その大先生のために労苦する人生は何と空しいことでしょう。
西郷の生き方、内村が今、私たちに訴えているのは、
「天からの声を聞け」です。