内村鑑三は「代表的日本人」のトップバッターに西郷隆盛をもってきました。
ラスト・サムライで日本を代表する武士道精神に生きて、
明治維新革命を引き起こした人物です。
そして内村は二番バッターに上杉鷹山をもってきましたが、
「代表的日本人」を解説された若松さんは、
2番手の上杉鷹山と三番手の二宮尊徳は一緒にして読むべきだと提唱されています。
上杉鷹山は米沢藩の殿、二宮尊徳は農民から出た平役人と身分は違いますが、
二人に共通しているのは、試練と危機に直面して、
それを好機としてとらえていったことだと若松さんは言います。
内村はどのように書いているのかを見ていきます。
その前に上杉鷹山についてある辞典ではこのように紹介されています。
・・・江戸中期の大名。出羽米沢藩主。江戸生。
幼名は直丸・直松・勝興、鷹山は号、
藁科松伯・細井平洲・滝長愷等に師事する。
藩主になると質素倹約・殖産興業・田畑の開墾等を実施し、
さらに養蚕・織物等の新産業の開発にも努めた。
また農村振興により天明の大飢饉にも餓死者を出さず
寛政期の藩政改革者としては最も優れた人物であった。
文政5年(1882)歿、77才。・・・
なおウィキからも引用しておきます。
・・・元来頑丈で大病でも病床についたことはなかったようである。
着衣は木綿、食事は一汁一菜を基本とし、木綿の使用は羽織や袴だけでなく、
下着にいたるまで着衣の全てに使用していた。
食事の内容は朝食に粥を2膳ほどと香の物(漬物)、
昼食や夜食に千魚などの肴類を添えて、うどんやそばを食べていた。
酒は飲まず、冬になると甘酒を一椀ずつ飲んでいた。
結果的に倹約ができて健康にも良い粗衣粗食であった。
「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」
武田信玄(1521-1573)の名言を模範にしたもの。
伊勢津藩主・藤堂高兌は藩政改革の一環として、
津に藩校有造館を、伊賀上野に支校崇廣堂を設立した。
これに当たって、当時既に名君の誉れ高かった治憲の徳を慕って、
崇廣堂の扁額の揮毫を依頼した。扁額裏には治憲の署名と文政4年(1821年)とある。
2007年に『讀賣新聞』が日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも、理想のリー
ダーとして上杉鷹山が1位に挙げられている。
米沢藩中興の祖である鷹山は、現在の米沢市民にも尊敬されている。
その例として、他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがあっても、
上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多い。・・・
二つの辞典から見ても上杉鷹山の生き様は
まさにサムライ精神、武士道精神に生きた人物であることが分かります。
内村鑑三はどこにスポットライトをあてて書いたのか、これから見ていきましょう。
私はウィキにあったように
「着衣は木綿、食事は一汁一菜を基本とし、木綿の使用は羽織や袴だけでなく、
下着にいたるまで着衣の全てに使用していた。
食事の内容は朝食に粥を2膳ほどと香の物(漬物)、
昼食や夜食に千魚などの肴類を添えて、うどんやそばを食べていた。
酒は飲まず、冬になると甘酒を一椀ずつ飲んでいた。」
というまさにサムライ・ファスティングそのものの生き様に共感を覚えます。
そういえば西郷隆盛も明治国家の中枢にいながら質素な生き様でした。
次第にサムライ・ファスティングの生き方、輪郭が見えてきました。