鷹山の藩政改革はまず、藩の役人の改革から始まります。
まず能力ある人物を登用して惜しみなく手当てを与え、
役職者に「民の父母」としての行政の監督者を置いたことです。
そしてまるで巡回教師のように事細かい日常生活まで指導して藩内を回ったのです。
また反面、藩内の犯罪には厳しい対応をしていきます。
このような指示を出しています。
「教師である教導出役は、地蔵菩薩の慈悲を持ち、心には不動明王の正義を忘れるな」と。
こうした役職が機能して効果はめきめきあがっていきます。
また鷹山は「教育のない民を治めるのは手間がかかって効果があがらない。
国中に活気を与え、あたたかい血を通わせる」と教育制度改革もしていきます。
このような大胆な改革には、
当然、保守派から相当な反対もでたことはいうまでもないことです。
しかし、鷹山は藩民にどちらを選択するか任せたのです。
こうした鷹山の改革こそ、
日本政府もそして各自治体も本気で鷹山の改革をしていかないと
大変なことになるのではないかと思われます。
しかし、残念なことですが、
私の住む高島市も滋賀県もそして日本政府も鷹山のような指導者は皆無です。
そして藩の役人の大改革をしてから、産業革命へと移行していきます。
ここから内村鑑三の言葉を紹介していきます。
・・・産業革命を行う上で、鷹山は二つの方針を打ち出した。
1・領内に荒れ地を残さないこと
2・民の中に怠けものをなくすこと
もともと沃地でない土地であるが、
自分と領民の懸命の努力で15万石の領地から(2倍の)30万石の
収穫をあげることができると鷹山は考えた。
そこで真剣に農業経営に取り組んだ。
・・鷹山は平時にはサムライにも農民の仕事をさせた。
また漆の栽培普及を命じた。
その工作に向かない土地にはコウゾが植えられた。
その目的は全国有数の絹の産地にすることだった。
この資金を藩の乏しい財政から出せるわけがない。
そこで鷹山は藩種の生活費209両のうち50両を倹約して、
その支援にふりむけ、できる限り領民のあいだにこの事業を広めようとした。
若き藩主はいう「わずかな金でも、長くつづければ巨額に達する」と。
鷹山はこれを50年間も続け、彼が初めに植えた数千本の桑の木はどんどん増え続け、
やがて領内に植える余地がなくなるまで普及した。
今日の米沢と名産の見事な絹織物が、
あの昔の若き藩主の忍耐と仁愛を証明している。
今や米沢織物は最高級品の一つに数えられているのだ。・・・
サムライ精神とはこのような忍耐と仁愛をもってことにあたるということです。
そして自ら率先して民の先頭を走った鷹山の革命は大成功しますが、
それは実に日々の小さなことをきちんと実践していったことなのです。