また内村は次のように鷹山のことを紹介しています。
・・・仁政とは病人を治療する機関を備えてはじめて完成したといえる。
その点でも、この名君に抜かりはなかった。
医学校「好生堂」を開設し、教師に当時の名医を2人招いた。
薬草を栽培するための植物園も開かれ、
そこで採取された薬草を使ってその場で講義と実習が行われた。
西洋医学が恐れと疑いの目で見られていた時代に、
鷹山は数人の家臣に日本初の蘭医として名高い杉田玄白の新しい医学を学ばせた。
そしてそれが和漢の医学にまさると確信すると、
費用を惜しまず手に入る限りの医療器具を買い求め、
医学校で十分な教育と実習が行えるようにした。
このようにペリーの艦隊が江戸湾に来航する50年前、
北日本の山間地では西洋医学が一般的に取り入れられていたのである。
鷹山は、中国から入った儒教の教育を受けたが、中国人になりはしなかった。・・・
内村の最後の言葉は、内村の真骨頂でしょう。
英語で書いたこの「代表的日本人」で自分は欧米人になったわけではなく、
むしろ日本人の血肉に流れるサムライ精神に目覚めたように
鷹山もむしろ自分の生き方を映し出していたように思えます。
そして医学を重視して新しい西洋医学まで導入したことは驚くべきことです。
米沢藩の力をつけるには健康維持を重視して、
そこに重点を置いたのはまさに名君といえましょう。
しかし、今、日本はアメリカに胃袋を支配され、
アメリカからかなり遅れてようやく禁煙政策を取り入れましたが、
ここまで来るのに3、40年もかかっています。
ましてや日本を支配している肉食支配から脱出には
100年かかるのではないかと思います。
このような遅々として動かない日本人の保守的な姿勢が最も強かった
江戸時代に鷹山のような政策が実行されたのは、驚くべきことです。
また鷹山の社会改革は医療面もそうですが、
他にも遊女制度を廃止しています。
それによって不都合は一切なかったというのです。
日本は明治時代から戦争を開始して、
軍部は娼婦を制度的に現地の女性であてがい、
兵士60人に娼婦1人としてきたことは、すでに先般の政府の調査で明らかです。
これは日本国中に遊郭が作られていたのとは真逆の
聖なる政策をとった鷹山の思想に驚かざるを得ません。
日本人が戦後も東南アジアに女性を求めて女漁りをして遊んだという事実も含め、
鷹山のような指導者は、戦後の日本に政治、経済界で存在していなかったのです。
日本にはそれを戒める厳しい戒めが欠如していたからにほかなりません。