ウィキによれば尊徳の子孫について次のように紹介しています。
・・・二宮尊行 - 二男。通称、弥太郎。文政4年(1821年)生まれ。
尊徳の長男・徳太郎が生後まもなく没したため、嫡男となる。
尊徳没後も御普請役の命を受け、遺志を受け継ぎ日光山領89村の仕法を推進した。
嘉永5年(1852年)4月、近江大溝藩士・三宅頼母の娘・鉸子(こうこ)と
下野国東郷陣屋で結婚する。
慶応4年(1868年)6月、戊辰戦争の戦火が今市に及び母、妻子と
これにより日光山領の仕法は打ち切られた。
二宮尊親 - 尊行の長男。通称は金之丞、金一郎。
明治4年(1871年)、父の後を継ぎ家禄700石を給される。
明治10年(1877年)、報徳農法を民間で実践する為、
冨田高慶を社長に興復社が設立され、
副社長に斎藤高行が就任するが間もなく尊親が就任した。
富田高慶が没すると社長に就任し、新天地にて実践することを求め、
明治29年(1896年)に社員と探検隊を組織し、
開墾に適した土地を探して周り、ウシシュベツ原野を発見した。
明治30年(1897年)、第1期移住民75名とともに
北海道豊頃村(現在の豊頃町茂岩地区)に移住し二宮農場として
豊頃村牛首別(ウシシュベツ)原野を10年で840haも開墾し、
宅地や防風林等も含めて興復農場は1,345haにも及ぶ大農場となった。
またこの間、母の鉸子は尊親の子・徳(とく)を札幌に居を構えて養育した。
明治40年(1907年)、開拓が一段落した為、再び相馬に来住し、
妻は報徳婦人会会長となり、
尊親は中村城三の丸跡にある相馬家事務所に執事として勤め、
「報恩全集」の編纂をした。
その後、銀行の取締役、大正6年福島県立薫陶園園長、大正8年(1918年)には
報徳学園2代目校長に就任した。
尊徳の娘婿。文化11年(1814年)生まれ。
藩世継の相馬充胤の近侍となるが藩復興の志のもと江戸に出る。
天保10年(1839年)6月1日、入門。4大門人の1人で、報徳仕法を支えた。
尊徳の片腕として活躍し、嘉永5年(1852年)に尊徳の娘・文子と結婚するが、
翌年出産で帰った実家にて母子ともに亡くなった。
日光仕法、相馬仕法に従事した。
相馬仕法は尊徳の代理として、弘化2年(1845年)から
廃藩置県まで領内226村のうち101村を対象に行い成果を得た。
維新時、尊行一家とともに相馬に移住した。
明治2年(1869年)、相馬中村藩家老上席および政治総裁となった。
廃藩置県後は、明治10年(1877年)に興復社を設立し社長となった。
また、尊徳没後「報徳記」「報徳論」を著した。
明治23年(1890年)、77歳で没する。二宮尊行の次男高英を婿養子とした。
大友亀太郎 - 旧幕府下で札幌村の開拓を指導。札幌開拓の始祖と呼ばれた。
岡田良一郎 - 4大門人の1人。・・・
このウィキで紹介されたように子孫、弟子たちで報徳記が書かれ、
報徳農法が発展していったようです。
なお尊徳の教えを基本にした男子校が、
報徳学園二は、宮尊徳を敬愛し、その教えである報徳思想を実践していた
神戸の実業家、大江市松が「以徳報徳」の精神を身につけた青年を育成したいと願い、
武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区)に3年制の報徳実業学校を創立されたものです。