尊徳は詳しく調査をしますが、その村に数か月住み、
村の一軒、一軒を訪ねて情報を収集し、小田原藩主に次のような報告書を書きます。
ここから内村の文章です。
・・・荒廃した村の復興の可能性を見定めるために必要な情報をすべて集めた。
尊徳が小田原藩主に提出した報告書では、見通しは暗かった。
ただ、まったく見込みがないわけでもなかった。
「仁術さえ施せば、この貧しい人々に平和で豊かな暮らしを取り戻すことができます」
と尊徳は報告書に書いた。
「金銭を下付したり、税を免除したとしても、この困窮は救えないでしょう。
実際、救済の秘訣は、金銭援助をことごとく撤回するところにあります。
このような援助は、強欲と怠惰を引き起こし、人々の不和の種となります。
荒れ果てた土地を開くには、荒れ果てた土地の力をもってし、
貧乏を救うには、貧乏の力をもってすべきです。
どうか、この痩せた地からは、無理のない年貢を取り立てるだけにして、
それ以上を望まないでください。
もし1反の田から2俵の米がとれるなら、1俵は村人の生活を支えるために用い、
もう1俵は荒れ地をさらに開墾する費用として使わなければなりません。
そのようにしたからこそ、この実り豊かな日本は神代に開拓されたのです。
当時は(日本中)が荒れ地でした。いかなる資金援助もなく、自らの努力で、
土地そのものが持つ力を頼みとして、
今日のような田畑や肥えた農耕地帯、道路、町が生まれたのです。
仁愛、勤勉、自助の徳を徹底して行えば、これらの村にも希望が生まれます。
もしも、誠心誠意、忍耐強く仕事に励むなら、
今から10年後には、以前の繁栄を回復できるのではないかと思われます」
実に大胆で、理にかなった安上がりな計画である。
そのような改革に賛成しない人間がいるだろうか。
道徳の力を経済の改革の要素として重視する、
そのような村の再建計画が提案されたことはほとんどなかった。
信仰を経済に応用したのである。
この人物にはピューリタン的なところがあった。
いやむしろ西洋からの輸入品である
「最大多数の最大幸福の思想」に汚されていない正真正銘の日本人だった。
そして尊徳には自分の言葉を信じてくれる人々がいた。
とりわけ良き藩主が信じてくれた。
たかだか100年あまりの間に西洋文明は、日本人を何と変えてしまったことか・・・
内村鑑三はこの書を書いたのが明治38年なので
尊徳は小田原藩の3つの村の改革が開始されたころから100年といいます。
同じ言葉を戦後74年、日本の今日に向けて語られている気がしてなりません。
ただ尊徳を報徳思想だけでは勝てません。
内村が指摘しているように聖書に基づく
ピューリタン精神を日本に持ち込まないと勝てません。