ファスティングの極みは、ひとえに所有欲からの解放にあります。
つまりファスティングを通して、
自分の果てしない所有欲を埋葬してしまうことなのです。
金を積み上げる、読破した本を積み上げる、名誉を積み上げる、
なかには自分の苦しさを積み上げて自慢することも所有欲です。
そして人よりは財産がある、名声がある、教養がある、人気者だとかですが、
果たしてそうでしょうか。
常に他人との関係に振り回されて、蓄積した財産、利害に振り回されていないでしょうか。
しかし、スイスの社会学者ラインハルト・ファトケ教授は、
「私たちは知人や友人との関係を自分にとって役立つ間しか続けていないことが多い」
と指摘しています。
私は30年前に株式会社で保険代理店を営んでしましたが、
その頃の日記を読みますと取引会社(顧客)は1000社を超えていました。
また、個人契約者はその10倍の1万人はいました。
そして雇っている従業員も20名、
新しいファイナンシャルプランニングや保険会社の買収まで模索していたのです。
しかし、1993年の韓国のオサンリ断食祈祷院のファスティングを通して、
献身への道を選びましたら、
蜘蛛の子散らしたようにこれまでの協力者は離れていきました。
まさに社会学者ラインハルト・ファトケ教授は、
「私たちは知人や友人との関係を自分にとって役立つ間しか続けていないことが多い」
ことを身に染みて体感したのです。
何度もくどいようですが、ファスティングは、
「自分の果てしない所有欲を埋葬する」ことにほかなりません。
どこまで人間の所有欲を放棄するか否かにすべてがかかっています。
ですから、今もなお所有欲に虜になっている者は、
それらをすべて手放すことは容易なことではありません。
また先のラインハルト・ファトケ教授は、
「子供を愛するのも、その子がかわいく自分の感情が望むあいだだけのことである。
それがなくなると子供を心理的に捨ててしまう。
それは子供を気持ちの上で孤児にすることで、
異常行動や抑鬱、自殺に追い込みかねない。
恋愛や結婚での伴侶も商品のような性格を持っており、
古臭くなると同じように片づけられ、捨てられてしまう」
といいます。
やはりどこまで所有しているものにしがみつき、放そうとしません。
しかし、ファスティングしますと
もう何もしがみついている必要がないことを教えてくれるのです。
子供も結婚も自己所有欲にのみに偏っているならば、
まさにラインハルト・ファトケ教授の指摘のようなことになるのです。
世の中にはまたその逆もあり、配偶者や子供からの虐待です。
それはさておき,
手放さなければ最高の境地にはいけません。
どの状態となることでしょうかそれは「自我」が全くない状態になることです。
つまりゼロとなる、「無」となることです。
アビラの聖テレサは言いました。
「ナーダ」に行きつくと。
ファスティングしますと無の感覚になるのではなく、
ニヒリストの底なしにいくのではなく、
空という絶対的無にいくのだといいます。
つまり無における、真の充足にいくのです。
ですから私はこれを「ゼロ・ファスティング」と命名しているのです。