鶴見医師の調査で米食発祥の地、中国では玄米を食べていましたが、消化が悪すぎ、
お腹を壊すので白米を食べるようになったという記録があるそうです。
そして日本に米食が伝わった時も「玄米はひいて白米にして食べる」
と伝わったと言います。
縄文時代に栽培されていたのは
外来栽培植物
大陸系穀物
イネ、アワ、キビ、オオムギ、コムギ
在来栽培食物
ヒエ、アズキ、ダイズ
こうした食物を食べていた時代ですが、
その後の支配者は白米を食べていたそうですが、
9割を占めていた農民、庶民は米の他にヒエ、アワ、キビ、野菜、イモ、豆
をまぜて鍋で煮ておかゆ状にして食べてきた時代が江戸時代まで続きました。
そしてこの上流階級の人たちに流行したのが脚気です。
◆全身の倦怠感
◆食欲不振
◆手足のしびれ、足のむくみ… など
脚気になると末梢神経や中枢神経が冒され、足元がおぼつかなくなったりするほか、
重症化すると心不全を起こして死に至ることもあります。
明治時代に大流行した脚気は、長い間原因が解明されず、
大正時代には結核と並んで2大国民病と言われるほどになりました。
江戸時代、それまで主に玄米を食べていた江戸の人々にも白米食が広がりました。
以前は、白米は身分の高い人しか食べられないものだったのです。
ところが、その頃から奇妙な病が流行り始めました。
白米を食べる習慣は都市部から広がり、地方ではまだまだ玄米食が中心だった当時、
江戸を訪れた地方の大名や武士に、足元がおぼつかなくなったり
、寝込んでしまったりと、体調が悪くなることが多くなりました。
そんな人たちも故郷に帰るとケロリと治ってしまうことが多かったため、
この病は「江戸わずらい」と呼ばれました。
当時の明確なデータはありませんが、亡くなる人も少なくなかったと思われます。
江戸時代の食事は、ご飯に味噌汁、漬け物という質素な食事が普通で、
主食の占める割合が非常に大きかったと言われています。
明治になると主食としては白米が普及し始めますが、当初は都市部が中心で、
地方の人々はお米に麦や野菜、雑穀、芋、海藻などを加えた
「かて飯」を食べていました。
また、相変わらず副食は乏しかったようです。
明治3(1870)年以降、東京などの都市部や陸軍があった港町から
「脚気」が流行り始めました。
「人口動態統計」や「死因統計」から、
乳児まで含めると毎年1~3万人の人が亡くなったと推測されます。