その原因や治療法を探るため、翌年には、府立脚気病院が設立されました。
しかし、この病院ははっきりとした成果を出すことなく、
すぐに幕を閉じることになりました。
当時、経験的に「脚気」が食事で改善することは一部で知られており、
皇族も脚気にかかりましたが、漢方医の提唱する麦飯を食事に取り入れ、
克服したと言われています。
しかし、明確な科学的根拠が示されることはなく、
治療法は確立されていませんでした。
特に明治になって誕生した軍隊では、多くの兵士が同じ食事をとることもあり、
大勢の脚気患者が発生。
亡くなる兵士も多く、大問題となっていきました。
江戸時代末期、日本は鎖国を解き、世界への扉を開きました。
そして明治政府は西洋諸国に対抗するため、
「富国強兵」と「殖産興業」政策を推し進めていきました。
徴兵されたのは多くが農家の若者でした。彼らにとって、
軍隊での最大の魅力は1日6合の白米を食べさせてもらえることでした。
ところが、白米が食事の大部分を占め、副食が乏しいこの食事スタイルこそが、
ビタミンB1不足を招き、軍隊内に「脚気」の患者を増やすことになってしまったのです。
「江戸わずらい」と呼ばれるように都市部に多かったこの病気は、
この頃から全国に広がり、国民病となっていったのです。
近代的国家を目指す明治政府は、欧米の生産技術や制度を導入し、
鉱工業や鉄道、電信等の事業を主導していきました。
中でも象徴的なのが官営富岡製糸場です。
先進的な器械を使って生糸の生産量を大幅に増やし、輸出量を拡大しました。
ここでは全国から集まった工女たちが働き、
やがて地元に戻って技術を広めることに貢献しました。
こうして製糸業は全国に広がり、
1890年代、繊維産業の輸出に占める割合は50%以上になりました。
当時の記録によると、富岡製糸場では、
朝、昼、夜の3食が提供されていたそうです。
これが働く人を対象とした初めての給食制度だと言われています。
白米を中心とした給食は、当時としては恵まれていたと言えますが、
田舎で雑穀を食べていた工女たちに
脚気の症状をもたらすというマイナス面もありました。
最盛期には、農家の4割が養蚕を営んでいました。
製糸業が盛んになるに従って、蚕の餌となる桑の葉が必要になり、
それまでビタミンB1の補給源だった雑穀畑が次々と桑畑に変わっていきました。
また、経済の発展により、農家の人々も貨幣収入が得られるようになり、
白米を食べる習慣が広がっていきました。
これらの要因により、都市に多かった「脚気」が国全体に広がってしまったのです。
明治時代、海軍では、脚気で亡くなる軍人がたいへん多かったと言います。
そのため、海軍軍医であった高木兼寛は、
その原因を探るため、世界初の疫学調査を行いました。