日本は食の規定が一切、存在しない国です。
そのような宗教が存在しないからです。
飽食の国となってしまいました。
超少食ファスティングを私も唱えていますが、甲田先生が今から30年前に
これを提唱された時はいかほど大変なことであったでしょうか。
今でも食べることすなわち正義なりですから、
おそらく叩かれまくりだったことでしょう。
聖書にはこうあります。
11:11-45わたしはあなた達の神、主である。
あなた達は自分自身を聖別して、聖なる者となれ。
わたしが聖なる者だからである。……わたしはあなた達の神になるために、
エジプトの国からあなた達を導き上った神である。
わたしは聖なる者であるから、あなた達も聖なる者となりなさい」
ユダヤ教を解説した書にこのような言葉があります。
「ユダヤ教は、ユダヤ人にモラルある民であり、聖なる民であることを命じている。
人類は神の似姿として創造されたが、また動物でもある。
……ユダヤ教は、人間の動物的行為を否定したり侮辱したりする代わりに、
律法を通してこれらを聖化する。
動物的活動の中でももっとも頻度の高い、食べる行為の品位を高めるために、
数多くのミツバ(おきて)を規定している。
ユダヤ人の食事は、律法で厳格に規定されています。
まず、儀式的に手を洗うこと、その時祝祷を唱えること、
食卓に就いて感謝の祈りを捧げること、
食事中も話題はトーラーについて語られること、
そして食後の感謝の祈りが必要です。
この一連の規定の中で、適正食品規定(カシュルート)が要の役をしているわけです。
人は食べたいものは何でも食べてよいというのでなく、
食べ物に制限を付けて守れることこそ、
人間が動物でない所以だとユダヤ教は考えるわけです。
しかも、その制限理由が、神が命じたからそれを守るんだというとき、
それ自体が宗教行為になります。
適正食品規定を守ることによって、
コーシェルを守ろうとすれば、非ユダヤ人と一緒に食卓をかこめませんから、
もっとも基本的な日常生活において他の民族と交流できません。
長い離散の歴史の中で民族の個性を維持することができました。
これは個人にとっても、日々自分の信仰を確認する行為になり、
自己鍛錬になります。
特に、宗教熱心なユダヤ人が外国に旅行するときには、
食べ物に苦労することが多いようです。
今では飛行機の機内食でも、コーシェル・フードを出してもらえます。
ユダヤ人の少ない国、例えば日本では、
ホテルに泊まっても食べられる物は非常に限られます。」
ユダヤ教のように食べ物に制限を設けるからこそ、
人間は動物ではないということを確認するというのは非常に重要な指摘です。
日本が制限がない食べ過ぎ、飽食を続ける個人も国家も動物以下ということなのです。
皆さんは動物ですか、人間なのです。
制限があるがゆえに人は人として生きるのです。