ローマ帝国が衰亡して、民族大移動が起こり、ペストの大流行で、
古代の学者たちの医学知識の権威は失墜し、喪失の憂き目にあっていました。
特にローマ帝国の崩壊で外科の知識は完璧に地に落ちてしまいました。
そのような中で薬草の文献は後世にしっかりと継承されたのは、
ベネディクトゥス(注・01)の貢献です。
彼の創設したベネディクト派修道会の修道士たちは、
古代の薬草の文献を事細かに書写します。
ただそのことに批判も出ています。
なぜならローマの異教徒であったからです。
それはローマやギリシアでは王や皇帝など身分の高い人たちしか、
医術の特権を受けていませんでした。
しかし、修道士たちは、身分の差もなく修道院に来るすべての人たちを診療しました。
助けを求めていれば、貧富の差なく家のあるもののないものの
何の分け隔てもなく手当していました。
これはこれまでの医学の歴史ではあり得なかったことでした。
なぜそれが可能であったのでしょうか。
それは修道院にとっては、カリタス(注・02)が中心テーマだったからです。
そしてベネディクトゥスの定めた会則で、病人の介護を定めています。
それが医療という分野の基礎を築くことになったのです。
ベネディクトゥスはこういいます。
「病人の看護は何よりも優先されなければならない。
彼らにはキリストご自身に対するのと同じように仕えなければならない。
キリスト自身がおっしゃっておられるではないか。
『私は病気だった。あなた方は私を見舞ってくれた』と。
そして『あなたがたがこれらのもっとも貧しい人々のひとりに行ったことは、
私に行ったことである』と」
まさにベネディクトゥスは修道会の規範として
大きな影響を与えたばかりではなく、
癒し主なるイエス・キリストの信仰を引き継ぐ偉大な医者だったのです。
(注・01)
イタリアのヌルシア生まれのキリスト教修道士。
529年ごろ、モンテ=カシノに修道院を建設し、
ベネディクト派修道会を興した。539年(または540年)に
ベネディクトゥスが定めた戒律は、その後の修道会の規範として大きな影響を与えた。
7世紀ごろには、すべての修道院において、
ベネディクトゥス戒律を準拠することが定められた。
ベネディクトゥスは、修道院の創設や戒律の制定などで知られるが、
ヨーロッパ=キリスト教世界では、
その生き方そのものがヨーロッパ文明の源流であり、
設計した人物として崇敬され、「聖ベネディクトゥス」と言われている。
(引用)ローマ帝国が崩壊した後も、荒廃と混乱のなかで彼は修道院を建設し、
福音を述べ伝え、大地を耕して豊かにし、
ありとあらゆる事業を計画的に発展させ管理する修道士たちを生みだした。
また学校や図書館、ギリシア・ローマの古典、哲学や芸術、
薬学や神学書の保存と研究は、そのすべてが彼らの仕事であった。
(注・02)カリタス
愛,神愛,愛徳などと訳す。〈神は愛である〉という信仰宣言のなかに
キリスト教のすべてがふくまれているともいえるが,
その〈愛〉(ギリシア語でアガペーagapē)のラテン語訳がカリタスである。
したがって,カリタスはイエス・キリストの十字架において啓示された,
人間に注がれる神の愛,およびそれにこたえて人間が神と隣人に示す愛を意味する。
信仰に始まり,希望によって強められる神への歩みは,
愛徳(カリタス)において完成されるのであり,
これら三つは〈キリスト教的徳〉あるいは〈対神徳〉と呼ばれる。