教皇ウルバノ2世(注・01)時代に巨大聖堂がいくつも建設され、
ロマネスク様式(注・02)建設の聖堂を中心に都市が発達していきます。
この十字軍誕生までの200年間は蛮族の進攻で
キリスト教国は弱体化(注・03)していきますが、
その中から再生していくのです。
それは下記の2つの改革です。
1・クリュニー改革(注・04)
2・ロベルト・ド・モレーム改革(注・05)
この改革により、聖ベネディクトの戒律厳守を徹底した
新たな修道会が躍進していきます。
そして聖ベルナルドがプレモントレ会を創設し、
これらの時期に霊的な熱情(リバイバル)がヨーロッパ全土を覆います。
その時、1098年にファルツの貴族に一人の娘が誕生します。
教皇ウルバノ2世(注・01)
11世紀のローマ教皇(在位:1088年 - 1099年)。1095年のクレルモン教会会議において、第1回十字軍の派遣を呼びかけた人物としても知られる。グレゴリウス7世のもとで推進された教会の自己改革(グレゴリウス改革)においては教皇の右腕として活躍。ウルバヌス2世を称した新教皇は、グレゴリウス7世の推し進めた教会改革の路線を忠実に踏襲することを表明し、優れた外交手腕によって実際に多くの改革を達成した。1095年11月にクレルモンで行われたクレルモン教会会議の最終日に呼びかけた第1回十字軍の派遣を訴える演説は非常によく知られている。クレルモン教会会議において、彼はフランス人たちに対して、聖地をサラセン人の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現を引用して軍隊の派遣を訴えた。彼がフランス人に神のために武器をとるようにと呼びかけると、人々は「神の御心のままに!」(Dieu le veult!)と答えたという。ウルバヌス2世は、教会改革の支持者であり、十字軍を呼びかける演説に対しても熱狂的に応えたル・ピュイ司教アデマールを、十字軍を指揮する教皇使節に任命した。ウルバヌス2世は、十字軍によるエルサレム占領の14日後にこの世を去ったが、この知らせを聞くことはなかった。(ウィキ)
マネスク様式(注・02)
中世西ヨーロッパの建築様式である。時代区分としては、おおよそ1000年から1200年頃までのゴシック建築以前の建築を指す。同時代のビザンティン建築と同じく、教会堂建築において最高の知識・技術・芸術が集約されており、彫刻や絵画は聖堂を装飾するための副次的要素であった。ロマネスク建築の建築物は大陸全体で見られ、帝政ローマ建築以来初めての汎ヨーロッパ建築様式とも言える。ロマネスクという言葉は、美術史・建築史において、19世紀以降使われるようになった用語である。直訳すると「ローマ風の」という意味であるが、当初は「堕落し粗野になったローマ風の建築様式」という蔑称としての側面が強く、その芸術的・建築的価値が評価されるようになるのは20世紀になってからである。(ウィキ)
蛮族の進攻でキリスト教国は弱体化(注・03)
中世前期は、西ローマ帝国の衰退に続いて始まり、後には中世盛期(1001年-1300年)が続く。この時代には、古典古代後期に始まる人口減少、特に都市部での人口減、交易の衰退、移民の増加が継続した。また、この時代の文芸作品や文化的創造物が、特にヨーロッパ北西部において相対的に少ないことを強調して、「暗黒時代」と呼ばれてきた。しかし、これらの傾向はこの時期の後半には反転する。滅亡を免れた東ローマ帝国は生き残り、7世紀にはイスラーム帝国がかつてのローマ帝国の版図のかなりを占領し、イベリア半島では後ウマイヤ朝が栄えた。西ヨーロッパでは800年にカール大帝により皇帝の称号が復活し、大帝のカロリング帝国はヨーロッパの社会構造と歴史に大きな影響を与えた。封建制度の中で体系的な農業が復活し、三圃制やヘビー・プラウ等が発明された。蛮族の入植はヨーロッパの多くの地域で鎮静化したが、北部はヴァイキングの侵攻によって大きく影響を受けた。(ウィキ)
クリュニー改革(注・04)
リュニー修道院およびその影響下に行われた10、11世紀の修道院改革。
「聖ベネディクトゥス会則」の無条件実践にあった。第2代院長オドー(在位927~942)は詩篇誦読(しへんしょうどく)、賛美歌、聖母マリア崇拝、十字架崇敬など聖務日課の充実と典礼の荘厳化を重視することによって、政治的、精神的危機のなかで救霊意識を強めていた貴族の関心を集め、彼らによる土地寄進や特権付与によってクリュニー修道院の影響力は11世紀には急速に広まる。(ウィキ)
ロベルト・ド・モレーム改革(注・05)
レームのロベールはカトリック教会に属する修道会、シトー会の創設者の一人。列聖もされている。ロベールは、理想的な修道生活を送るためにモレームの森を開拓しモレーム修道院を設立する。この修道院は多くの寄進を受けるなどして発展したが、それゆえにロベールが求めた修道生活は困難となっていった。ここで理想とした生活とは寄付や十分の一税を受けとらず、自ら行う労働と祈りの生活であった。(ウィキ)