エゼキエル書の「妻が死んだ」の後に続く預言者エゼキルの言葉です。
24:19 人々はわたしに尋ねた。「あなたが行っているこれらの事は、
我々にどんな意味があるのか告げてくれないか」と。
24:20 そこでわたしは、彼らに語った。「主の言葉がわたしに臨んだ。
24:21 イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。
わたしは、わたしの聖所を汚す。それはお前たちの誇る砦であり、
目の喜び、心の慕うものであった。お前たちが残してきた息子、
娘たちは、剣によって滅びる。
24:22 わたしがしたように、お前たちもするようになる。
お前たちは口ひげを覆ってはならない。嘆きのパンを食べてはならない。
24:23 頭にターバンを巻き、足に靴を履け。また、嘆いてはならない。
泣いてはならない。お前たちは自分の罪のゆえに衰え、互いに嘆くようになる。
24:24 エゼキエルは、お前たちにとってしるしとなる。すべて彼が行ったように、
お前たちもするであろう。すべてが実現したとき、お前たちは、
わたしが主なる神であることを知るようになる。」
24:25 人の子よ、わたしが彼らから、その砦、栄光の喜び、目の喜び、
心の望みであるもの、息子、娘たちを取り去る日、
24:26 その日、逃れて来た者が来てあなたの耳に告げる。
24:27 その日に、あなたは逃れて来た者に向かって口を開いて語り、
もはや黙しているな。あなたは彼らに対してしるしとなり、
彼らはわたしが主であることを知るようになる。
三大預言者の一人、エゼキエルが語った言葉を、
実際に目の前で起こっている自分の最愛の妻の死とオーバーラップしていました。
この死には何か神の意図があるに違いない。
まさにエゼキエル書が語るように
「どんな意味があるのか告げてくれないか」でした。
自宅に帰ると彼女が眠っていた部屋では、
コタツで休みながら聞いていたミクタムのゴスペル賛美がかかっていました。
その曲は彼女が最もよく聞いていた賛美だったのです。
その曲とエゼキル書の言葉を想起しつつ、
まるで眠っているような安らかな妻の顔から、このように私に語ったのです。
「あなたが目を輝かさせて語っていた韓国のような
断食祈禱院を建設してくださいね。
祈って見守っているから」と。
この妻の言葉の背景を説明しておきます。
私は初めて愛農高校で聖書に出会ってから独立伝道者になることが目標でした。
また愛知県にあるキリスト教による重度障害施設「愛光園・ひかりの里」
をモデルにして、三重県に建設することもビジョンにありました。
そのことを20年前(1974年)、出会ったばかりの洋子に熱く語っていたのですが、
その後、父の負った2000万円(現在の価値なら1億円)もの借財の返済のために
保険代理店を営み、それに洋子を巻き込んでしまったのです。
しかし、それから20年後、その時に持っていたビジョンの数倍のビジョンに
妻は賛同してくれて、支援していこうと決断してくれたのです。