日本のキリスト教会は2020年からのコロナ禍でも、
またウクライナ戦争においても断食祈祷して祈ろうと呼びかけていません。
断食祈祷が日本に復興しない限り、
日本からキリスト教のもつ地の塩の役割が喪失してしまいます。
ヨーロッパの激動時代に修道院が世俗化の波を押しのけ、
歯止めをしてきたのは修道院の断食であったことはすでに書いた通りで、
このゆえにキリスト教の本質を堅持して、EU統合も実現していますし、
欧州に与えた恩恵は計り知れないのです。
16世紀に活躍したドイツの画家、マティアス・グリューネヴァルトは、
有名なイーゼンハイム修道院の祭壇画に
聖アントニウス(251年頃 - 356年・キリスト教の聖人。修道士生活の創始者とされる)
が受けた悪魔の誘惑シーンを描いています。
その絵を見ますとアントニウスは手足を伸ばして床に横たわり、
ぞっとする悪魔や毛虫に苦しみ、
その苦しみもがくアントニウスを神は上から様子を眺めておられる。
その時、アントニウスは神に「なぜ私を助けてくれないのですか」と尋ねると、
神はこのように答えられたのです。
「アントニウスよ、わたしはずっとここにいて、お前の戦いをみようと思ったのだ。
お前が負けずにこの戦いをしのげば、
お前を助け、あらゆる場所でお前の名を高めよう」。
そうなのです。悪魔との戦いはイエスがそうであったように
そこで破滅、敗退しなかったものは、魂のあらゆる神秘に通じることができるのです。
神を求めることはいつの時代も同じです。
そして聖アントニウスこそ断食祈祷を切り開いた
そのアントニスの言葉
地上の実はたった1時間で熟するようなものではなく、
時間と飴と世話が必要である。同じように、
人生の実のりもはじめは禁欲と日々の修練によって大きくなり、
時がたてば粘り強さと自己抑制、忍耐によって大きくなってゆくのだ
アントニウスのように神を真剣に求める人たちの究極の体験は、
ほかならない神との出会いでした。
しかし、それは自分個人の願望であればそれ自体が邪魔をしてしまいます。
それゆえに神との出会いを求める人たちは、
断食をして自分自身の欲望を完全に絶つのです。
それが修道生活の基本ですし、私たちも同じなのです。
しかし、断食はある意味では、
諸刃の剣で間違えばとんでもないカリスマ的指導者となって、
マインドコントロールするようになります。
私はそうなった指導者で23年間も操られ、縛られてきました。
もし1993年にこのようなミュラーさんの本に出合っていたら
後の23年間の遠回りはまったく必要なかったのです。
ましてや高校時代、聖書に出会い、聖書の研究に時間を使うことになった時、
断食祈祷を知らなかったのはかなり大きな損失でした。
私はその時に無教会指導者から、
一度も断食祈祷のすばらしさを聞いたことがなかったのです。
なんという損失、そして断食を知ってから断食を自己目的で
利用する指導者にまたもや23年間、振り回され、
合わせて約50年間もの遠回りとなってしまったのです。