「バイブル・ファスティング」と比べれば、
東洋断食の代表であるヨガなどでは到底、断食の極みにいくことはできません。
いやプロテスタントも含め、
つまりファスティングは、苦しむことを目的とした修業行為とは違います。
はるかな霊的な高みかにいこうとするものであり、
ファスティングという苦行を重ねて、
人間の努力でそこに行こうとすることではありません。
極めて霊的な営みなのです。
人間の限界を突破していくことなのです。
たった一人でローマ帝国と戦い300年後に霊的に征服したのです。
それはまさにファスティングで次のことを知っていただからです。
パウロはそのことを手紙で次のような書きました。
ローマ人への手紙
6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きることにもなると信じます。
第1コリント人への手紙
7:30 泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、
物を買う人は持たない人のように、
7:31 世の事にかかわっている人は、
かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。
このパウロの言葉の解釈です。
「この世の楽しみや物質的な財産を過小評価はしていないが、
ただそれを常にただちに手放す覚悟をしているという意味なのである。
つまりファスティングは所有していなくてもいいということを
身につけるためにあるのです。
そして欲望をコントロールするためにファスティングはあるのだということです。
ファスティングはただ単に美容や健康のためでもなく、
内面の浄化なのということです。
・自分の人生を根本的に見直し、軌道修正したい人、
・何かを談するため
・いつも習慣を断つためにコンバージョンを切に願っている方
このような人々のためにあるものです。
ファスティングする人は創世記の「アダムの時代の楽園回復」なのです。
それはそれは楽園=天国への切符となるのです。
飽食三昧の生涯、権力や財産、
多くの業績を求めての永遠のしあわせはみつけられません。
私たちは後世に何を残すかが問われるのです。
このような忠告を残しています。
「何でも探したいものを探しなさい。
だが、あなたが探しているところではないところを探してみなさい。
いくら物質的な欲望を満たしても、あなたの魂は高みに向かうこと、
憧れることがやまないといいます。
私は聖アウグスティヌスの言葉がよく分かります。
保険代理店で大成功すればするほど魂は植え乾いていたし、
魂はもう枯渇状態であったからです。
私たちはあのアダムの住んでいたエデンの園の回復が必要であり、
天国への切符はまさにファスティングという欲望を
コントロールすることから始まるのです。