私はファスティングのルーツは聖アントニウスだと確信しています。
ウィキではこのように説明されています。
・・・250年頃、エジプトのコーマ(英語版)で生まれ、
敬虔な両親にキリスト教徒としての教育を受けたという。
20歳になった頃両親と死別、その後財産を貧しい者に与え、
自らは砂漠に籠もり苦行生活に身を投じる。
305年頃、アントニオスが町で行った説教に心を打たれた
修道僧らと開いたのが修道院の始まりだという。
しかし彼はそれでも飽きたらず、再び修行に励み356年、
105歳という長寿を全うしたと伝記には記されている。・・・
そして記録によれば、聖アントニウスが20歳の時に礼拝の説教で聞いたのは、
次のようなマタイによる福音書の聖句でした。
マタイによる福音書
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。
まだ何か欠けているでしょうか。」
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、
行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
この聖句を聞いた瞬間、聖アントニウスは
衝撃が稲妻のように彼を襲ったというのです。
「この青年こそ私なのだ。この言葉は私に向けて語られたのだ」。
この聖アントニウス体験こそ本当のファスティングの根源的な体験なのです。
これはまさに神を体験することことにほかなりません。
この小さな私ですら体験したことなのです。
私も韓国で断食祈祷したときに何もかも捨てて、一切のものを捨てて、
神に従うことに生きようと導かれたのです。
私たちはどのようなものを所有するかいなか、
その持ち物の優劣で勝ち組、負け組と色分けして生きています。
そしてそこに生きがいを見つけて生きているのです。
しかし、そのような中に私たちの人生はあるのだろうか、
一人の人間の評価、価値は才能や財産など持ち物なのだろうか。
人として生きる価値は神の与えた賜物、恩恵なのであり、自己所有ではないのです。
ファスティングはこのような自己所有から解放する力をもっています。
人間の真の価値を見出すのは、自ら進んでおこなう断念という行為、
思いから来るのです。
私たちは物事を断念することで与えられるものなのです。
友情、愛、ゆるしなど相手からの報酬をまったく考えずに
まず与えることだけをしてみたらどうなるかです。
微笑みかける、やさしい言葉をかける、人を愛してみることで
もっと美しい平和な人間になることができます。
聖アントニウスを支配した聖句は、本当の幸せは所有ではなく、
・断念すること
・与えること
・手放すこと
にあったのです。
それが本当のファスティングなのです。